牛さん、美味しい?
今朝の業界紙一面
綺麗な縞模様。プロの仕事。美しい作業風景が絵になる。
栄養価が高く、繊維質も豊富。乳牛にとって最も大切な1番牧草の収穫風景を鳥瞰した写真だ。
そして絵の下のキャプションには
「雨を避けるため、草刈り機(右)と収穫機を同時に稼働させ、急ピッチで作業する(北海道中標津町で)」とある。
牛飼いを生業として、牛に家族を養って貰った身としては、「牛さん本当に喜んでいるのだろうか⁉︎」と
疑問に思ってしまう。
つまり、刈り取りながら同時に切り込む事だ。
十勝でもそうだが、コントラクターに作業を依頼すると、請け負った広大な面積の牧草を適期刈り取りする事が至上命題だが、
水分調整がなされていない。
しかし、牛が最も喜ぶグラスサイレージ、ひいては我々が飲んで美味しいと感じる牛乳を作るには、
牧草の適期刈り取りと水分を83%から65%位までの予乾が必要なのだ。
この作業では、牛や人の事は無視。
ここでも効率至上主義なのか。
牛さん、このグラスサイレージ本当に美味しいですか?
46回目
「よくぞ今まで続いたものだ!」なんて独り言を言っていても、なんのこっちゃ?ですよねー。
実は昨日6月24日は46回目の結婚記念日なのだ。
「誰の⁉︎」ってか?
「だ・か・ら・オレと家内です!」
「アーァなるほど。ホントよく続いたね。奥さんしっかりしてるからね!」
そんな声がオチコチから聞こえて来そうですが、
「ハイ、その通りです。」
家内が5月30日に膵臓癌の摘出手術を受け超特急の6月12日に退院したのだが、
昨日は膵癌の様態説明や今後5年に亘追跡検査などについて、医師から説明があった。
膵癌はステージ0。とは言え、癌の転移は100%0とは言え無いので、3ヶ月置きに
がん検診を受けて下さい、との事だった。
病院でのスケジュールが全て終わった午後1時頃から、糠平湖畔の「ヒグマ珈琲」に向う。
「ヒグマ珈琲」のオーナーの鈴木さんご夫妻が、1ヶ月程前にアイスクリーム作り体験の
相談に来てくれた、そのご縁で尋ねて行ったのだ。
窓ぎわの席に腰掛け、「ライスサラダボウル スープ付き」とコーヒーをオーダー。
人生初めてのメニューだが、美味しかった。
食後の珈琲を頂きながら、漸く写真を撮る
夜は夜で、孫や家族皆んなで祝って貰った。
持山、増えた
昨日6月13日、山林の売買契約が成立。
山林と言ってもほぼ平らな所で、この2月に53年生のカラ松を皆伐したばかり。
帯広市内在住のMさんから購入。
面積は48,429㎡。昔風に言うと、4町8反4畝29歩。
所有山林は約98ha余り。
「100町の山持ちになると」言う老父の夢に、あともう一歩だ。
しかし振り返って見ると、オヤジの後継なんかゴメンだ!と思いつつも家業の酪農を継いでしまった。
そして今、「山を買い、木を植えるのは、50年後の廣瀬家の年金だ」と言うオヤジの言葉に乗せられて、山林経営も然りだ。
オレの代は土地購入、植樹、下草刈りなどなど出費ばかりだと言うのに...
與七さん
27日午後、ウエモンズハートの店内でJAの職員と話しをしている最中の事。
ツナギ姿の息子が「オヤジ、お客さんだよ!」と声をかけてきた。
呼ばれるまま店の外に出て見ると、クールビズで背広を着た10数人の集団が居るではないか。
はて?見学などの予約は無かった筈だがと思いつつ目を移すと、一際ニコニコした白髪のおじいちゃんに目が釘付けになり、思わず「アレー、與七さん!お久しぶりです。お元気そうで...」と手を握りしめた。
與七さんを含むこの一団は、東京都酪農組合の役員一同で、
育成牛を委託育成して貰っている本別町の公共牧場を視察して来た帰りだそうだ。
東京都下の酪農家は現在39戸にまで減少。風前の灯状態だそうだ。
與七さんのフルネームは小泉與七。住所は練馬区大泉学園駅近くにあり、東京23区内唯一の酪農家でもある。
今から26年前の平成10年に、社)中央酪農会議が主催する酪農教育ファーム活動の立ち上げに、オレと共に呼ばれた中の一人が小泉與七さんだ。
当時の與七さん曰く「大正時代からの牛飼いで、畑の真ん中だったものが、街がどんどん我々農家を飲み込んで行った。すると近隣住民となった人達から臭い、ハエが多い、夜の牛の鳴き声がうるさいなどと苦情が入り始め、挙句には区役所や保健所の職員なども定期的に、移転勧告に来るようになった。
そろそろ潮時か、いつ止めようかと思案する日々が続いたある日、近隣の大泉学園小学校教員の横山弘美先生が小泉牧場を訪ねて来た。最近小中学で総合的学習の時間が導入され、クラス担当教員の裁量で授業が作れるようになった。ついては小泉牧場で牛に触れさせて貰い、お産を見学したり、乳搾りや餌やりなどを通じて「食や命の教育」をやって見たいと、相談があった。」
その事をきっかけに、それまで「邪魔な牧場」だったのが一転して「無くてはならない牧場」になったと感慨深げに語っていたものだ。
今は息子の勝さんが同じ場所で頑張っている。
そんな理念を元に平成11年に地域交流牧場全国連絡会が組織され、その活動の柱が酪農教育ファーム活動となり、更に平成16年には、今度は国が食育基本法の条例を制定する嚆矢となっていたのだ。
與七さんの突然の来訪で、40代後半の一時代を思い出し、懐かしく感慨に浸った。
「帯広の森」とオレ
「帯広の森」計画から除外して貰い、人生の重荷を背負わず「やったー」と思う間も無く、
移転が無理なら現在地に牛舎を建てると言い出すオヤジ。
人生の旅の方角も決まっていないのに、旅支度をさせられるようなもので、
「一難去ってまた一難」とはこの事だと、自分の身の上を恨んだりもした。
しかし自分自身手をこまねいていた訳ではない。
当時、1960年代後半。先進地の酪農、農業を学ぼうと、海外実習がブームになりつつある時代。
派米協会とかホクレンなどでも実習先を紹介してくれるのだが、今日の日本の技能実習制度と同じで、
共同生活を送りながら派遣先に通うと言う方式が主で、一年或いは二年と実習をしても
牛の飼養技術は元より、英語すらも満足に習得出来ずに帰国する者も少なからずいた。
自分自身酪農技術の習得には関心がなかった。
兎も角英語を日本語と同じように自在に使えるようになるチャンスと捉えていた。
高卒後、国内のブリーダーと言われる酪農家に実習に入ったのには、酪農の実習ばかりでは無く、
2〜3シーズン酪農実習を続けると、アメリカのブリーダーの牧場を紹介してくれ、尚且つ人物保証もしてくれるのだ。
このコースで実習に入るとファームボーイとして家族と一緒の扱いをしてくれるのだ。
より確実に英語を習得出来る方法としての、徒弟制度の様なシステムを選択したのだ。
高卒後2年乃至3年の国内実習を経て、アメリカの牧場を紹介してもらおうと言う腹づもりだった。
当時早来町の竹田牧場に卒業間もない3月31日に実習に入った。
実習では一生懸命頑張ったことが認められ、親方からはもう1年働いてくれたら、
来年にはカナダの牧場を紹介してやるので、もう1年頑張ってくれと約束してくれた。
そんな翌年の2月オヤジから1本の電話が入った。
「あぁフミか。今年4月から我が家の実習生が婿入りすることが決まり、人手が足りなくなるので、実習を取りやめ家に帰ってこい。」
そんなオヤジの電話に驚きつつ「国内とアメリカ合わせて4、5年実習をさせてくれと頼んだんじゃないか?」と言うのがやっとだった。
「何をわがまま言っている。人手が足りなくなって、我が家も大変になるんだ。ともかく帰ってこい。」と、有無を言わせない。
そんなオヤジの迫力に気押され、これから19歳を迎える年齢なので、ここで一旦家に帰っても、アメリカカナダに実習に行くチャンスはあるだろうと、
自分を納得させ、家で働くことになる。
自分の将来に対してそんなあやふやな気持ちの中で、帯広の森計画による牧場移転や牛舎の新築話が次々と持ち上がって来るのであった。
続く