揖斐川町、その2(表敬訪問)
一昨日午後札幌へ向かい、昨日は朝から検査。その結果を受け、午後2時すぎから小山先生の定例検診。
今回は、初めて心肥大が認められた。
4日からの廣瀬家ふるさと揖斐探訪の旅は、3組の妹夫婦の引率し、揖斐川町長への表敬訪問始め、初めて会う大勢の廣瀬一族。また上善明寺では我が家の先祖の総供養の読経をあげて貰ったり、或いは神社仏閣巡りで石段を登ったり降りたりと、普段に無い動きを続け出来たせいか...
小山先生からは誤差の範囲かも知れないけれども要注意との事だった。
さて、師走とはよく言ったもので、揖斐探訪の旅の報告は揖斐の谷汲山松本屋さんに安着した所までの報告を始めたが、あっという間に一週間が経過。
今日は12/5、2日目の報告に行こう。
2日目は当日宿泊予定の大和神社宮司の保井円さんが、中古のマイクロバスで迎えに来てくれた所から始まる。その車には今回、揖斐での代表世話役をしていただいた廣瀬勲さんの案内で始まり、スタートは揖斐川町長富田氏の表敬訪問だ
今回の旅、想定以上に何か大ごとになりそうな予感がする。
早速、名古屋で前泊していた智矩夫婦も合流し、10人でいざ町長室へ...表敬訪問と言う事で自分の挨拶から始った。故郷を捨てた百年前。その後の四度に亘る移転を経ての現在地での定住と、家業としての酪農および六次化としてのウエモンズハートの経営について説明。そして揖斐の廣瀬家と我々帯広の廣瀬家との関係を、揖斐在住の廣瀬誠さん作成の家系図を使って紹介させていただいた。
最後に記念写真だ。私の隣に写っている光頭家の方が富田町長。
さて次は我々廣瀬家の総本家であり菩提寺でもあり、尚且つ揖斐の古刹上善明寺訪問である。
山門を前に記念撮影。これから先祖の総供養が行われる本堂に向かうが、初めての訪問となる妹達はその歴史や荘厳さに圧倒されていた。
山門を入ると...左手に見えるのは宝物庫と手洗い場
正面から見た本堂。この本堂は昭和48年3月に自分が20歳の時、初めて訪問してお参りして来た翌々年に貰い火で焼失した物を再建した物だが、荘厳さは往時のままだ。
右手は住職一家の生活の場である庫裏だ。これは江戸時代の代官屋敷を大正時代に移築した年代物だ。
本堂の控え室でお茶を頂きながら、法要の挨拶と妹夫婦達の紹介だをさせていただく。
住職からは北海道を旅した時の感謝のことばをいただいた。
(つづく...)
揖斐川町
大正7年3月、廣瀬初次郎、ハツ夫婦が6人の子供を連れて北海道へ渡ったのが、わが広瀬牧場の始まりだ。
それから数えて100年を迎えた昨年、渡道以来4代に渡っての苦労の足跡をまとめた記念誌「賢者は歴史に学ぶ」を上梓した。
さらに11月23日、渡道以降の有縁の者達を集め記念式典も挙行した。
そして年が明け、今年は天皇が退位され、新天皇が即位。年号も5月1日から「令和」と改元された。
我が家は勿論、天皇家でも歴史的な行事が催された。同列に並べて語るのは憚られるが、そんな経緯も有ってか、13才で親に連れられ開拓に苦労をした北海道2代目で、祖父の種治の記憶が鮮明に残っている三人の妹達も俄然我が家のルーツに興味を持ち出した。
揖斐熱が最高に高まった12月4日、「ふるさと揖斐、探訪ツアー」が始まり、機上の人となった我々兄妹夫婦。
一番下の妹夫婦は先発隊として既に出発しており、彼らとは名古屋駅で落ち合う予定での出発だ。羽田空港に降り、ほぼ予定通り品川で新幹線に乗り、名古屋駅の乗り換え口で漸く8人が揃い東海道線で移動。大垣からは養老鉄道に乗り換え、念願の揖斐川町に到着。早速期待に胸を膨らませた兄妹夫婦全員で、揖斐駅を背景に記念撮影。
初日の宿泊は西国三十三番札所谷汲山華厳寺参道にある、谷汲山松本屋さんにお世話になった。
我々は、大半が下戸。ふるさと探訪の第一夜の宴会は静かに、しかし熱く、始まった。
(つづく...)
源氏絵巻⁈
今山代温泉「森の栖」二泊目。
小さな谷合に向かい合わせに建つ宿泊棟を繋ぐ渡り廊下が、まるで源氏絵巻みたい!
夫々の部屋では「朝廷の女房達」が日常の生活を送っている姿が、幽幻として浮かび上がってくる。
定期検査
11月29日は、札幌医大の小山先生の定期検査が有り、家内と受診して来た。
結果は変わらず、良い状態が保たれていると、お墨付きを頂いた。
bnpも20代とほぼ健常者並みを維持。
心臓の肥大も見られない。
4日からのふるさと岐阜探訪の旅も、大丈夫でしょう。気をつけて行ってらっしゃいと太鼓判を押してくれた。
ただ、矢張りと言うか、体重の現状維持と言う努力は認めるけれど、過肥には変わり無く、今回の旅は勿論の事、これから忘年会や新年会などが続くので気を引き締めて下さいと、釘を刺された。
今回は40日ぶりの検査だったが、この間、薪運びと薪アートにと10日間ほど連続して、肉体労働なるものを行った。爽快でもあったが、その後時々心臓の拍動がドキン、ドキンと高鳴り、不整脈も感じられた。心臓にどれ位負担がかかっているのか怖かったので、ホッと一安心!
来月は札幌医大の受診の他に、大阪大学での半年毎の検査もいく予定。
又CRT-D(除細動器内蔵のペースメーカー)の寿命の5年を来春迎える。これは来年4月に更新予定だ。
来客
12月1日日曜日、ウエモンズハート20周年イベント2日目を実施し、この日は290名の参加を頂いた。2時半過ぎにはみぞれになり切らない冷たい雨が降り出したにも関わらずだ。本当にありがとうございました。
さてそのイベントの最中、「珍しいお客様が見えてるよ!出て来て。」と裏の事務所にいる自分を、店長が呼ぶではないか。
誰?と思って店に顔を出すと、そこには何年ぶりだろう、懐かしい顔が2つ。
20年?いや小岩君なんかは20数年ぶりくらいだろうか?
彼らは誰⁈とお思いでしょう。彼らは広瀬牧場の恩人なのだ。
平成6年〜7年にかけて、家内の心臓の2回目の手術と自分の肺癌による肺の摘出手術が相次いだ。
家内は狭心症を起こしての手術だったのだが、昭和62年に受けた大動脈弁閉鎖不全を解消する為に受けた、機械弁への置換手術の後遺症としての狭心症だった。通常のバイパス術はうまく行かず、血管縫合部へのバルーン術を数度受けるも3度4度と再発。担当医もお手上げ状態だった。
なんとか小康状態になっていた平成7年正月明けに、今度は自分が肺癌の疑いで右上葉の肺を摘出する手術をうける。これは完全な誤診であったが、3ヶ月位仕事ができなくなってしまった。
その私の手術が終わるのを待っていた様に、家内の狭心症が再発。そして2度バルーン術を受けるも中々容態が安定しない中、札医大で二例目となるステント留置術を受けた。これが功を奏してこの冠動脈の再狭窄は起こっていない。
この2年間と言うのは我々夫婦の壮絶な病との戦いだったが、酪農を主業とする広瀬牧場の最大の危機だった。この危機を救ってくれたのが、当時帯広畜産大学の学生だった彼らだ!
今回訪ねてくれたのは写真左の西島君と同右の小岩君だが、他には森田君、久保君、妹尾君らが朝夕の牛舎仕事を手伝いに来てくれたのだ。そして可愛い事にバイト料よりご飯腹一杯食べさせて下さいと申し出てくれた。朝4時半からの仕事は元より、陰日向なく良く働き支えてくれた!
今の広瀬牧場があるのは一重に彼らのおかげだ!
彼らの来訪は、少し増長気味で鼻持ちならない爺さんなりかけていたオレに、社会への感謝の気持ちを再認識させてくれた。本当にありがとう。嬉しかった!
と、感慨に浸っていると今度は帯広中心部にある帯広小学校敷地内に熊が現れ、射殺されたと言うニュースが飛び込んできた。
こちらは招かれざる客だ。
しかし、帯広中心部に熊とは驚きだ。足取りは目撃情報を時系列にならべたのが次のニュースだ。
緑ヶ丘公園の上から、帯広小学校横を流れるウツベツ川沿いに北上して学校の敷地内へ。そして追い詰められ射殺されてしまった。
中々ヒグマとの共生は考えられ無いとは言え、射殺と言う可哀想な顛末だ。熊さんも、人喰いグマなどでは無く、冬眠に備えてもう少し、あともう少しと餌を探して川沿いを歩いているうちに後戻り出来ず、だんだんと人里中心部へと入り込んでしまったのだろう。
帯広市は郊外に400haの帯広の森と言う、植樹で作り上げた森が我が家の農地に隣接して広がっている。その森の中には帯広川や件のウツベツ川、売買川などが流れ込んでいる。と言う事を考えみると、我が家の裏庭にも出現してもおかしく無い。
自然豊かと言えば聞こえはいいが、今後孫が小学校に上がったらそこへの通学路が、帯広の森を突き抜けているんだが、今から心配だ。
危害を加えるつもりなど毛頭無いヒグマだけど、こちらは招かれざる客だ。