続、揖斐川町
阪大病院受診の為、中断していたふるさと探訪の旅の報告再開しよう。
6日朝、逗留先の大和神社の「お宿、揖斐川」を出発。
いよいよ揖斐川上流にある坂内村(廣瀬村)の鎌足神社を訪ねる。
揖斐川に沿った渓谷沿いをウネウネと登る事40〜50分、ようやく少し広がりがあり聚落の有る場所に辿り着く。
ここが廣瀬村の鎌足神社か
訪問は初めてだけれども30年ほど前、揖斐川町図書館で出会った松岡浩一さんから鎌足神社を祀っている廣瀬一族がいる事を聞いてから、いつかは訪ねてみたい所だったので、初恋の人にようやく会えたようなワクワク感でいっぱいだ。
坂内の廣瀬と言う所にある地区の会館前で、鎌足神社の持ち回り宮司さんや坂内村の廣瀬一族の長老廣瀬常代さん90才が出迎えてくれた。
坂内村廣瀬の来歴などを伺い、早速坂内廣瀬神社境内にある鎌足神社のお宮に案内して頂く。
右手を見てみると
狭隘な山路を遡ってきた所にこれだけの広がりの有る場所なら、当に廣瀬と言う地名がピッタリ。廣瀬と言う地名や苗字の由来が良く理解できる場所だ。
このやしろの裏側に明治末合祀されたこの地域のお宮さんが三つたたずんでいて、この中のひとつが鎌足神社だ。一人ひとりお参りをさせていただいた後、案内して頂いた廣瀬常代さんも交えて記念撮影。
鎌足神社のお宮さんの本来の位置を知りたかったが、また次回の楽しみに取っておこう。
失礼ながら、好好爺然とした廣瀬常代さんの顔や姿かたちから、一族の片鱗でも感じさせて貰えるか食い入る様に拝見した。そしてそれはひとつだけ、掛け値なしに「いい人」と言ったオーラが溢れているところが矢張り廣瀬一族か‼︎兎も角、お互いに1000年以上昔から藤原鎌足を祖先といただき、廣瀬と言う同姓を名乗っている親近感を更に抱いた。
最後に握手をさせて頂いたが、高齢の常代さん、或いは難病を患っている自分が今後再びお会いする事は無いのかと思うと、握った手が離れなかった。
昼食は坂内村の道の駅でソバを頂いた後、揖斐の古刹華厳寺や横蔵寺で上人のミイラも見学。
今日はハードだ。次に曽祖母のはつ(明治9年生)の生地である横蔵寺の近くの有鳥(あっとり)に向かう。
この標識のすぐ西側の曽祖母の墳墓の地に、岩崎家の石碑が建っている。
更には揖斐川町のマチュピチュと言われている、茶畑に連れて行って貰う。
家内と三男の嫁
この日は移動距離は短いものの、時間を有意義に過ごさせて頂いた。
この夜は今回の最大イベント、揖斐の廣瀬一族との会食が始まる...
(つづく...)
結果報告
23日の阪大病院澤先生受診の結果。
順番が来て、澤先生の部屋に入っていく。
半年ぶりの挨拶をして診察用の椅子に座ると、自分の着用していたブレザーの左襟に普段から付けているバッジに目が行ったようだ。
拡大して見ると...
このバッジの絵は「ブラックジャック」の主人公の医者が描かれているが、作者の手塚長虫氏が阪大医学部の卒業生と言う事で、阪大医学部心臓血管外科の象徴として使われているもので、自分は治験の患者として昨年大阪で開かれた心不全、心臓移植患者の集いに出席し、記念に頂いたものだ。
澤先生は開口一番、「あれ⁈そのブラックジャックのバッジ付けてくれているの?」と声を掛けてくれた。
自分も「ハイ、これは私の守護神、お守りですから!」と返すと、大きく頷きながら今回の検査結果や札医大の小山先生の報告書と併せて見て、所見を説明してくれた。
札医大小山先生の診断通り、EFポンプ率は30%と変わりはないが、ハートシート移植の治験者6人の内最も経過が良好な患者らしい。
澤先生曰く、「あと10年は大事にして貰わなくちや!」と。
10年と余命宣告を受けたのかと勘違いして「あと10年の命ですか⁈」と聞くと、「あと10年と言えば70代半ば過ぎか。そこまで大事にできれば、残りの寿命を全うできるよ」とおっしゃられた。
年が明け令和2年には68才だ。
振り返ると、60才を過ぎた頃から体調を崩し、検査の結果夢想だにしなかった心臓病で余命宣告を受け、その難病との戦い。そして阪大病院の澤先生との出会いと治験手術の成功と慌ただしく人生の淵を走り続けて、気がつくとあっという間に70才目前!
人生の終わりがある事に気づかされただけましか。
貰った命で、これから何をしようか!
それが問題だ‼︎
澤芳樹先生
明日阪大病院受診の為、今朝帯広を発ち先程伊丹空港近くのホテルにチェックインした。
明日は午前9時から検査が始まり、結果が出次第澤先生の半年ぶりの受診だ。
結果や如何に⁈
余りお手本になる様な患者生活を送っていないし......
揖斐川町、その4(卒業生名簿)
上善明寺の家紋だ。この寺の本堂の地下に納骨堂が有る。
そこには文字通り、数多の門信徒の遺骨が納められているのだが、そこには所謂秘仏なる物が収められていた。古い物では2世紀にインドで作られたものもあった。
さて、続いてお邪魔したのは揖斐川町立北方小学校だ。
玄関前には旧校舎の巨大な鬼瓦が飾ってあった。
この小学校は祖父種治が卒業した歴史ある小学校だ。
揖斐の廣瀬誠さんがもしや⁈と思い、校長先生に名簿の照会を依頼してあったものだ。そしてそれは果たして、有った。大正5年度卒業生名簿の一番初めに搭載されていた。今風にアイウエオ順で見ると、何故廣瀬が一番先に載っているのか⁈
ひょっとして、成績の良い順か⁈などと淡い期待を持ったが、なんの事は無い、誕生日順だった。その成績は、と言うと、十段階中八だった。卒業後の進路は高等科進学とあった。そこで、生前祖父種治が突然の北海道移住で高等科の中途退学を余儀なくされたと、話していた内容と符合し、感動した。
更に驚く事に、卒業生の集合写真も保存されているではないか!
写真のサイズは結構大きく殆どボヤけてはいないのだが、12才の頃の顔は判別がつかない。一番若い頃を知っている筈の父に聞いても残念ながら、判らないようだ。
勲さん、誠さんの手際良い案内で訪問予定は着々と消化して行く。
次は鎮守の杜、北方神社。
そして次は、天上寺(現、上善明寺)発祥の地に建つ廣瀬観音だ。
ここは今回のツアーのロケハン時、次男の祐二が願いが叶うかどうか占う「おもかりさん」と言う石を抱いた場所である。
5日最後の訪問地は、それこそ我が廣瀬宇右衛門家が暮らしていた場所(現在でも廣瀬初次郎名義になっている)に建つ廣瀬稲荷へ...
後、本日から2泊する大和神社に案内され、手続きを済ませて荷をほどく。
この夜は勲さん宅のご好意により、全員で夕食のおもてなしを受け、一日が無事終了した。
揖斐川町、その3(百年法要)
さて12月5日午前11時より揖斐探訪のメインイベント、廣瀬宇右衛門一族の百年法要が行われる上善明寺の本堂に案内される。
荘厳さに魅入る妹達
阿弥陀さんの前には、元禄15年に亡くなった宇右衛門政元以下の家族の位牌全てを祀らせて頂く。帯広からカバンに押し込められ、百年振りの里帰りに先祖達は驚き、そして、恩義せがましくも、きっと喜んでいる事だろう。
とり分け祖父の種治は、13才で晴天の霹靂の北海道移住。そして塗炭の苦しみの開拓暮らし。仲の良かった友達や嫁いでいた姉との別れ!全ての希望が断ち切られる人生。
そんな中、廣瀬家を立て直し、安穏な日々を過ごせるようになった老後。庭いじりを孫の自分に手伝わせながら、揖斐に帰りたいもんじゃ、と、遠くを眺める様な眼差しで言っていた祖父の顔が思い浮かぶ。自分としても、最もこの祖父種治を連れて来たかったのかも知れない。
いよいよ寿宣師、光宣師親子の読経が始まる。
特に現住職である光宣師の読経はバリトンで力強く、父親の寿宣師の老練な読経の声との二重奏で、広々とした本堂に朗々と響き渡っていた。
南無阿弥陀仏!
我々兄妹夫婦の他、勲さん巧さん兄弟。誠さんと母親の律子さん。そして松岡博明、美代子夫婦などがお参りしてくれた。
総供養が終わった後、記念撮影!
そして最後には、
前坊守の手作りになる御斎を振る舞われ(本来なら此方が用意すべきものだが)、その美味しさもさる事ながら心からなるOMOTENASHIに、全員感激だった。
ふるさととは、これ程に温かいものか。
先祖代々、揖斐での真っ当な暮らし振りが思い浮かび、感謝の念しか無い。
(つづく...)