札医大
19日昼に、ウエモンズハートの新年会をバイプレーンで済ませて、午後3時過ぎのスーパーおおぞらにて札幌に向かう。
そして昨日20日月曜日は、今年初めての札医大小山先生の診察日だった。
正月は少々暴飲暴食がたたり、腹の具合を悪くしてしまったが、検査の結果は前回同様良好だった。
BNPは16くらいと常人並。血圧は110-70くらい。
糖尿、肝機能や腎機能などもまず問題無し。
体重は怪我の功名か1キロ減で先生に褒められた。
次回は2月17日の予定だ。
免許返納
今朝の道新6面の読者の声欄に、新日高町の82才の女性の投書に目が行った。
そのタイトルは「移動は自転車、春待ち遠し」とある。
内容はこうだ。
旅行や買い物を始め、46年間に及ぶ絵本の読み聞かせボランティアの送り迎えをしてくれていた夫が、昨年夏免許を返納したとある。
食材は一週間ごと配達便で求めるが、新鮮な魚や肉は自分で買いに行く為20年間眠っていた自転車を引っ張り出し使い始めた、そうだ。
翻って10余年前の事だが、同じ帯広で酪農を営んでいる先輩の父親が相次いで自転車に乗っていて自動車事故に遭い、死亡した。
何の父親も70代後半になり、事故の危険性が高くなって来たとの息子の判断で、所謂免許返納を促した後の自転車走行中の自動車との接触事故で亡くなってしまったのだ。
片方の老父は自転車で出かけた老人会のパークゴルフの帰り、進行方向の右手に有る自宅に入ろうと、後方確認をせずに右手に斜め横断をしてしまったそうだ。
もう一方は矢張り自転車で買い物に出かけ、少しフラついたか後方から走って来た車に巻き込まれたものだ。
さて、我が家の老父は93才を迎えたが、一向に免許の返納など頭の片隅にも
無いような素振りで車の運転を続けている。
確かに耳の聞こえは普通の声での会話に何の支障もない。
視力も昨年末白内障の手術を両目とも受け、現在では裸眼でも1.0以上の視力も維持している。
はたまた、老人ならではの痴呆も全く感じさせない。
運動能力はそれなりだが、本人も年齢を自覚しての運転を心がけているようだ。
さて、ある筋の統計情報によると実は老人性の事故が顕著に増加はしていないそうだ。ただニュースに取り上げられる頻度が高くなっていて、それで高齢者の引き起こす自動車事故が増えているように感じるだけだ、と。
つまり作為的。或いは印象操作なのか。
そう言えば自動車業界では機を一にするように、自動運転や自動ブレーキなど安全に走行する為の技術の伸張か著しく、それらの機能を搭載しないといけない時代になってきている。
穿ち過ぎか?
あれから25年
今朝の農業新聞
もう25年になるのか。阪神淡路大震災は平成7年1月17日未明に起きた。
「えっ、記憶力抜群だね⁈」って思われる方もいらっしゃいましようが、「ハイ、抜群なんです。この事に関しては!」
肺癌の疑いが有る右上葉の切除手術の為、この年1月4日帯広厚生病院入院。7日切除。その後4人部屋で療養するのだが、仕事柄朝4時には目が覚めてしまう。そしていつもの様にHBCラジオをイヤホンで、その日も聞いていた。
5時半、「エノさんのおはよーさん」が始まった。番組の内容は他愛の無いものだった所為か記憶にはないが、番組が始まって間も無くパーソナリティのエノさんが突然「あっ、ただ今東京の◯◯◯ラジオのスタジオが揺れ始めました!」「大きくなるのかなぁ⁈」
ほんの少し間を置いて「余り大きくならず、地震は収まった様です。驚きましたー!地震の震度や震源地、その規模など詳細は発表され次第順次この番組中お知らせします。さて......」と番組が再開される。
そして番組中各地の震度が順次発表されるがその中でエノさんが「関西方面の情報が全く入って来ませんね?どうしたんでしょうか。」
暫くして「大阪からの情報では、神戸付近が非常に強い地震に見舞われ甚大な被害があった様です。ヘリによる上空からの取材結果を待ちましょう!」
こんな流れでじょうが少しずつ明らかになり、神戸の安佐区では高速道路の橋脚が根元から折れ倒壊。何百台もの車が下敷きになり、住宅地では倒壊した建物に挟まれた人達が延焼してくる火に次々焼かれ、その火は何日も続く。結果犠牲が6,000名以上になってしまった。
入院中テレビ各局では連日このニュースを流し続けていた。
ベッド生活を余儀なくされていて、例えば自分が肺の切除手術中にこんな地震が起きたらどうなるんだろう、と想像するだけで「ゾッとした」覚えがある。
と言う事で記憶力云々にかかわらず、強烈な記憶としてのこっているのだ。
因みにこの年の3月には地下鉄サリン事件も起きている。
「エッ、それで肺癌はどうなったって⁈」
「肺の陰影は気管支嚢胞だったので、癌の心配は全くないそうで、現在に至るまで癌の疑いをかけられた事は無い」のでご安心を!
或る老後...
今日、勝農酪農科の同級生E藤君所有の山林を譲り受ける手続きを行なって来た。約6.5haの面積だが、その8割は高台に挟まれ大水の度に川の流れが変わる湿地で、植樹も出来ない様な土地だ。
そんな二束三文の土地をなぜ購入したのかって?
東京に住む三男からの「夢を買うんだったら価値の多寡など関係ないんじゃ無い⁈」との一言が自分の背を押したのだ。
話しは変わって、父博昭はこの近くで生まれ育ち11才まで暮らした土地で、現在の居住地帯広に昭和13年に引越した後、高台で傾斜の多い11haにカラ松を植樹し、残りの25haは近隣の農家に貸していた。戦後の農地解放でその25haは小作人に売り渡したが、カラ松を植樹した11haの所有権はそのまま残り、現在迄80余年所有している所謂第一世代の山林だ。
その父が、15年程前からその近隣の山林を買い集めていて、現在75ha程にまでの規模になっている。
山林を買い集め始めた当時の、その父の言い分はこうだ。
「おれも随分と年を取った。この年になって感じる事は、十勝川の鮭と同じ様に無性に生まれ故郷に戻りたくなるもんだ!」と。
又、揖斐の旅でも触れたが、祖父種治も80才を過ぎた頃から「揖斐に帰りたいもんだ。」と言っていた。
かく言うオレは、此処で生まれ、育ち、生計を営んで来たが、はてさて、何処に帰りたいのか⁈生まれて70年になる我が人生はここから動いた事は無いし...
間も無く93才になる父は、少しずつ買い足している林地の内、南東方向に少し目の前が開けた場所に10坪程の山小屋を建てた。
その小屋のすぐ脇に井戸を掘りそこから水をポンプで汲む為屋根にソーラーを設置。スイッチひとつで水が出る事がわかり、次はユニットバスを取り付け昼間っから風呂に入る。更にはテレビを設置。最近は薪ストーブでは部屋が温まるのに時間がかかるらしく、ポータブルの石油ストーブも購入。
更には廣瀬家の地蔵堂まで建て、7/23日を先祖供養の日にして子供達を集め、先祖の苦労を偲ぶ日にしている。
兎も角際限が無い。そんな父博昭は、街灯一つ無い漆黒の闇に包まれた山小屋には、心細く一人では泊まれず、母をなだめ、透かしながら伴い、泊まりに行くのを無上の楽しみにしている。
老父の夢の手伝いが出来るのも幸せな事だ。