迷いに迷って...
新型コロナウイルスの収束が中々見えてこない。
そして昨日夕方、明日4/29〜5/6の連休中ウエモンズハートの営業自粛を決めた。今夕の勝毎に次の様な広告の掲載をお願いしてある。 先日のFM-JAGAの取材には、「万全を期して営業します」と放送させて頂きました。
3密を避けるため、
①店内からテーブル椅子を撤去し、且つ動線と停止位置を決めさせて頂きました。前後左右1.5mの間隔を取ってもらいます。
②お客様と従業員が向き合うレジやショーケース前には、飛沫感染を防ぐためプラスチックパネルも設置
③更には店内事務所側の小窓から空気を強制的に取り入れ、一番遠い窓から室内の空気が逃げるよう、正圧換気もさせて頂いています。
店としてはできうる限りの対応を取らせて頂き、「野中の一軒家」として、この閉塞感漂う今だからこそオアシスとして営業する事も、ある面社会貢献かなとも思っていました。
しかし、ゴールデンウィークは大勢の人の移動が見込まれ、それと共に従業員には感染リスクが高まる。さらにはその後ろにいる家族の健康や安全をも考えずして、何の為のサービス業なのか⁈
そう思い至るや、営業自粛との決断となりました。
短時日の内の翻意で「5月6日までの8日間」の営業自粛とさせていただく事といたしました。皆様方には本当にご迷惑をお掛けしますが、宜しくご理解の程お願いいたします。
皆様方の努力に依り収束に向かう事楽しみにしています。その時にはとびっきりのジェラートを提供させて頂きます。
お叱り...
4月20日月曜日、札医大の小山先生に診てもらう。
今回も心肥大は見られず、bnpの値も頗る良く、常人と変わらない位だった。
しかし、新型コロナが猛威を振るっている現状に鑑み、先生、患者共にマスクの装着は当たり前。聴診器や血圧測定など患者に触れる行為は、余程の愁訴が無い限り行わず問診のみ。
次回は、月一の検診も5月は飛ばし、6月下旬の受診となった。
問診だけでも月に1度は診て貰いたいのは山々なのだが...
さて、その問診の中で、ここ1か月の身体の状態や、行動など聞かれるのが恒例だ。
16日に帯広を出発。その日の午後雨竜町の藤江秀俊(短大時代の同級生でしかも寮では相部屋だった)を尋ねる。彼は水田農家で米の仕入れ販売もおこなっていて、その取り扱い高は4万tとか。規模がデカ過ぎて分からず尋ねると、留萌農協と同規模との事。農協と同規模⁈と聞いて大いに驚いた(寮生時代はこんな経営者の片鱗すら見えない遊び人だったが!)。
その夜は北竜町の温泉でヒデ(藤江)と共に夕食。18.19才の頃の遊び人時代に戻って話が弾み楽しい時間だった。
翌日北竜町に別れを告げ、留萌経由で一路稚内を目指す。その日の朝のレクサスのメーターは帯広を出る時は49,404kmを指していた。
留萌から先国道232号線は、同乗の家内共々初めての道行だ。天候にも恵まれ且つコロナによる外出制限のせいか、車通りも少なく快適なドライブだ。
小平を過ぎると、ニシン番屋で小休止。展示館なども見学。
ズンズン北上して行くと、雲間から利尻冨士が見え初め、更に進むと完全に雲も取れ目を奪われてしまい、一旦停車し写真に収める。
手塩から抜海を目指して更に海岸沿いを北上。
道路は真っ直ぐ。左手の利尻冨士も進む程に大きくなり、右手には風力発電の風車が林立。浜風を受けてグウーン、グウーンとゆっくりだが力強く回っている。天候に恵まれ、どこまでも真っ直ぐで車通りも殆ど無く、快適なドライブだ。
昼過ぎ、抜海の上原太一宅に到着。電話、メールは週一以上と言う帯農、短大と同級の友人。今回の一連の入院、手術時は励まし続けてくれた。左隣が太一だ。
その後、一昨年実習してくれたのち酪農家に嫁いだ藤木志保(堀)にお祝いを届け、その後、太一と共に宿泊予定のペンション「アルメリア」に移る。
太一を交えて3人で夕食を摂りながら、夜中まで思い出ばなしに花を咲かせる。
翌日、再び太一を乗せ、これもまた過去の実習生の皆川拓也君の牧場を訪問trim.B4FC279A-FAE0-415C-A99D-6211C8D89A59.MOV
そして手塩の同級生、黒川益毅君の牧場だ。
夫々短時間では有るが、旧交を温めその夜は太一宅に泊めて貰う。
翌日19日朝食をいただき、札幌に向かう。その日のは更に快晴。今度は右手に利尻冨士を見ながら、抜海に別れを告げ一路札幌へ。帰りも、留萌から増毛、浜益を通り札幌へ。全行程日本海側を走り抜ける。
さて、今回札医大受診に至る迄の行程を掻い摘んで先生に報告すると、「新型コロナが蔓延して非常事態宣言が出されいるこのご時世に、遠方への旅などもっての外ですよ。」とたしなめられた。
新型コロナに感染すると、重度の心不全、腎不全、高血圧の人。そして高齢者(自分も家内も心臓病の一級障害者で尚且つ高齢者と言う身の上だ。)は死亡率が高くなると言う情報も知りつつの旅を強行してしまった。
因みに、16日帯広を発つ時のレクサスのメーターは49,404km
21日に帯広帰着時のメーターは
ゆうに1,200km以上走破してしまったのだ。
160年前の恋愛事情
我が家は大正7年に、私の祖父初次郎(47)祖母はつ(42)夫婦と三女つな、長男種治を始めとする6人の子供を連れての十勝移住がスタートだが、この事は一昨年末に上梓した渡道百年誌「賢者は歴史に学ぶ」に詳細は記してはある。
上は移住当時の家族写真では有るが、その写真右端に立つのが初次郎。画面には居ないが彼の両親卯右衛門、きん夫婦の馴れ初めについての話しだ。
話しは一気に江戸時代末期にまで遡る。
初次郎の父卯右衛門は、寛政12年(1804)生まれの父十内と、文化10年(1813)生まれの母さたの次男として弘化3年(1846)2月7日大野郡北方村30番戸と言う所で生まれている。
又、母のきんは父奥村六右衛門、母たね夫婦の1人娘として嘉永6年(1853)5月15日に同村40番戸で生まれている。7才年下だ。そしていつしか2人は結婚し、息子の初次郎は明治5年(1872)1月20日に生まれている。卯右衛門は26才で、きんは19才(厳密には18才8ヶ月)で、夫々父と母になっている。この事は30年以上前に取り寄せていた除籍簿で確認できていた。
さてつい先日、遠縁の廣瀬誠さんから明治初期の我が家の住んでいた北方村の地番のわかる古地図が送られてきた。
早速、我が家が住んでいた「朧・おぼろ」地区に地番を落とし込んで見た。
すると、30番戸(蛍光色の黄緑色)の卯右衛門の家ときんの実家奥村家の40番戸(ピンクに色付けしたところ)は、軒こそ並べてはいないが、すぐ隣同士で有る事が分かった。卯右衛門が腕白盛りの7才になった頃、奥村家ではきんが産声を上げていたのだ。
さて、時代は100年程下った昭和40年(1965)頃の事だ。自分が中学生の頃、祖父の種治(明治37年生)は還暦も過ぎ大好きな庭いじりに精をだす毎日でだった。中学生の男の子ともなれば、牛舎や農作業はもう一人前。放課後や休日などは一廉の戦力であったが、祖父から見るとこれまた半人前以上の手子として、自分も始終手伝わされた。
ある日曜日の午後、祖父が「あ〜ぁ、えろ(美濃衆の方言で疲れた事をえらいと言い、話し言葉になるとえろ、となる。決してエロでは無い)、ちょっと一服(タバコを吸わず単なる休憩)しよまいか(しようか)。」と言いながら近くの木の株に夫々腰を下ろす。
何とは無く、他愛の無い会話に続けて、昔の事が脳裏を掠めたのか、祖父の種治は「ワシのお祖父さんの卯右衛門は、連れ合いのきんとは、好き連れだったんじゃ」と言うでは無いか。今思えばなんて言う事も無い会話だが、12.13才と言った多感な年頃を迎えていた自分には、大層秘密めいた響きがあった。何しろ中学校に入りたての頃、学校では休み時間になると「オイ、ションベンに行くぞ。」などと2、3人男同士連れションが当たり前。お互い「おい、アソコの毛生えたか⁈見せてみろ!」「そう言うお前はまだポヤポヤの禿げだべや」などと、いやが上にも男と女の違いを意識する年頃だったから尚更だ。
祖父種治は続けて「きんは奥村家の一人娘の跡取りで婿さんを貰わなければダメなんだけど、ウエモンはきんでなければダメだ。きんもウエモン兄さんでなきゃイヤダと言いはる。そこで両方の親が折れ、晴れて結婚出来たんじゃ。」
今回送られて来た古地図から、二軒のこの近さを知るにつけ、少年卯右衛門はきんの成長をつぶさに見ていただろうし、一人っ子のきんも卯右衛門兄さんを慕って後を付いて歩いたなどと想像してしまう。
また、廣瀬と奥村は隣同士て田んぼも接していて、一服なども一緒にしていたかも知れないし、お互いの働きぶりも知悉している。お祭りや花火の折には二人で星を眺めたり、正月はカルタ大会など少しずつ意識するようになったのかも...。或いは夜這いをしたか...(あぁイカン、イカン、どうも妄想が...)
どちらも駆け落ちをすると言い張ったか、二人で首を括ると脅したか状況は定かでは無いが、親の決めた結婚が当たり前の時代に、かくもお互い恋焦がれて結ばれた夫婦の末裔かと思うと、自分の中にもそんな熱い血が流れているんだ!と感動した。
当時は、黒船来航があったり尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、明治維新と言う激動の時代にも関わらず、男女の恋の炎は燃え上がるものなんだ!
足踏み
今日は朝から雪降り。
3月27日には、福寿草が十勝にも漸く春を連れてきてくれたのに...
予報によると、明日、明後日も雨やら雪のマークがついている。
新型コロナの影響で人も外出を控えている中、降雪が人の出鼻をくじいていて、ウエモンズハートも閑古鳥。
68
昭和27年(1952)3月31日が自分の生まれた日だ。
そして今日令和2年(2020)3月31日、無事68才の誕生日を迎えた。
朝はウエモンズハートの職員から、おめでとうコールを頂いた。
そして夕食時。
93と89の両親始め、家内と長男夫婦。そして5才と8ヶ月の孫達に囲まれ、誕生祝いにしゃぶしゃぶをご馳走して貰う。我が家の祝宴開始の合図は上の孫の仕事で、彼女の「カンパーイ!」から始まる。
久しぶりのしゃぶしゃぶで箸が進む。そしてビールに日本酒。昔ほどは行かないが、美味しくほろ酔い程度に頂く。
母親からは「ホントにフミが元気になって何にも言う事無い。」と言われ、感慨も一入。
思えば、帯広厚生病院で1か月の検査入院の結果は「10万人に3〜4の確率で発症する難病の特発性拡張型心筋症」と伝えられ、合わせ余命5年の宣告を受けたのが平成26年(2014)10月62才のことだ。そして半年後症状も悪化し再入院したのが27年(2015)4月14日。3か月の入院治療の末、CRT-Dと言うSED内蔵の心臓ペースメーカーを移植され退院。暫く小康状態を保つも自力歩行も僅かずつと言った状態だった。
28年(2016)10月には心臓発作こそ無かったけれど、歩行困難な日が続き三たび入院。24時間酸素吸入とドブポン(強心剤)の点滴。歩行厳禁の車椅子と言った状態だった。正月も病院で過ごし29年(2017)1月末漸く退院するも安静な生活を指示される。
そしてその年4月担当の小山雅之先生から運命の電話が入り、彼の紹介で阪大医学部心臓血管外科の澤芳樹先生を紹介され、5月8日受診して即日入院。
7月26日、まだ治験段階のハートシート移植手術を受け、8月末無事退院する
事ができた。
それからあしかけ三年になろうとしている今日令和2年(2020)3月31日、無事68才の誕生日を迎える事ができ、始めの母親のことばになったのだ。
そんなこんなでお腹もくちくなり、孫の鈴からはお花を頂く。
トルコキキョウだ。
それには手紙が添えられていた。
表書きには「おじいちゃんへ」と書いてある
中には「おじいちゃん おたんじょうび おめでとう」の便箋
裏の差出人には「りんより」と書いてある。
生あればこそ
何気ない日常の一コマが嬉しい!