ゴーストライター
9月17日だから丁度2ヶ月前、全道の公立学校の教頭会全道大会で、食育について基調講演させて頂いた。
8月に開催された東京オリンピックに合わせる様に、コロナの第5波が猛威を振るっていたため全道大会の再延期が危ぶまれていた。
なんとかリモートで開催となり、会場に入ると、目の前、正面には動画撮影用のカメラとそれを操作する人がいるだけ。右手には進行担当が3名。左正面には関係の先生方が数名。こう言った会場での講演会が、上記の写真だ。
十勝農楽校を始めて30年、漸く人前で話す事が苦にならなくなっていたのだが、カメラのレンズに向かって、恰も聴衆に向かう様に話すのは、これ又至難の技だ。その証拠に、顔が硬い。
聴衆の顔が見えると、理解しているのかどうか無反応の人、はたまた講演者が熱弁を振るっても居眠りを続ける人。中には頷きながら聞いてくれる人には凄く力付けられる。が、義理で頷いているとしか思え無い人もいて一喜一憂だけども、何れにせよ、カメラに向かっての話しは難しい。
なつぞらの撮影現場に一ヶ月弱、演技指導を担当しツアーに参加した経験から、これでは、オレは俳優にはなれないなと、痛感した(誰もオファーなんてしてくれる訳は無いが...)瞬間でもあった。
そうそう、今日は「ゴーストライター」についての話し。前振りが長すぎた。
先週始め、研究大会の事務局を務めた、帯広市立西小学校教頭の武田先生から連絡があった。
過日開催された全道大会の報告書の作成に当たり、廣瀬さんの基調講演も全文掲載する予定で、その為の文字起こしが済んだので、一度お目通し下さい、との事だった。それはA3の用紙に写真入りとは言え8枚である。45分の講演って文字にすると、これ位の分量になるのかと、初めて実感した。
これが8枚だ。
武田先生は、何か間違いがあれば、朱を入れて訂正してもらえればと言う事だった。果たして目を通してみると......⁉︎
昔、中学校で、江戸から明治に変わった頃二葉亭四迷(だ調)、尾崎紅葉(である調)らが中心となって言文一致運動がおこったと、習った。文語文(漢文)から現代風の平易な口語文が確立されたのだが、自分にとってそれと同じ位の革命を感じた。
まず自身の講演の文字起こし文を読んでみると、兎も角、「なんじゃこりゃ!」だ。
例えば、文字起こしそのままでは...
「話しは遡って、2年ほど前から皆様方の研究大会に提言をしてほしいというお話しをいただきながらですね、コロナで長い時間、皆さん苦労されたようです。私も期待半分、今日とうとう来てしまったなと言うそんな綯い交ぜな気持ちでおります。」だって。なんのこっちゃ、これは!
そこでスムーズな口語体に直すと
「話しは遡りますが、2年ほど前に皆様がたの研究大会に提言をして頂きたいと依頼された直後、コロナウイルスが世界中に蔓延し、延期を余儀なくされたとの知らせを頂きました。コロナ禍の収束が見通せない中、皆様方も大変ご苦労されたのではないでしょうか。私自身も依頼された高揚感と、果たして上手く伝えられるのかと言った任の重さに苛まれる日々でしたが、今日とうとうその日が来てしまったなという思いです。」
と言う具合に、A3のペーパー8枚分の大半を目読に耐えるように書き直した。
iPadで打ち直したのだが、A4一枚につき1,849文字×十枚。計18,000余文字言うボリュームで、原稿用紙だと45枚くらいか⁈なるほど時間がかかるはずだ。
よく有名人が自伝などを出す場合、口述筆記をしてもらい、それをゴーストライターが編集すると聞いた事があるが、自分の文章をゴーストライターのように編集し直すのも、大変な作業だった。
そして先程、西小学校の武田教頭に無事渡す事が出来た。
結果や如何に
今日は、4年ぶりの衆議院選挙。
選挙。と言うより議員さんの話し
明治5年生まれの曽祖父初次郎の事
我が家は北方村(現岐阜県揖斐川町)では、足利時代から歴史のある旧家だったらしく、若い頃から小学校の教員や村会議員を拝命していたそうだ。
そんな初次郎は、家業である農業や紺屋業を家族に任せて、公職に励む毎日だったそうだ。時は進み、日清日露そして第一次世界大戦を戦うなか、安定した国家財政を賄う為の安定した財源として、地租(固定資産税)が高止まりしてしまう。土地は僅かしか無く、紺屋業も下降気味な中、初次郎は家業より公職に励む。挙句は先祖の土地を売り払って、未開の地北海道に移住を余儀なくされた。
初次郎の妻はつ(明治9年生まれ)にとって、公職は天敵となってしまった。
我が家は、曽祖母はつの「政治に直接関わるな」と言いう姿勢が、家訓となってしまった。
そのせいか、政治に対しては人一倍熱い思いや関心はあるのだが、自分が出馬するなど考えられず、また旗幟を鮮明にしてこなかった。
ただ、日本人の生命、財産、国土を守る(軍事だけでは無く食糧、水、インフラそしてコロナワクチンなどなど...)事に対する姿勢のみが、自分の関心事だ。
我が家は6票を抱える大票田一家だ。
結果や如何に
あられも無い姿
庭先のイチョウが、黄金色の衣装を足元に脱ぎ散らかし、幹や枝が露わになってきた。
9月27日には、まだ緑のままだったが...
間もなく全ての葉を落とし、一糸もまとわず、寒い冬を迎えるのだ。
明後日から11月。地球温暖化と言われるが、間もなく厳しい十勝の冬がやってくる。
ハンセイキ
人生、年代による様々なハンセイがある。
小学生の頃お調子者のオレは、カメレオンの様に近くにいる人間に染められやすかった。
徒党を組んで同級生をいじめたり、中学ではある同級生2人と何の話からか、夏の間も長靴で学校に通おうと約束をし、周りからの奇異な目線にもめげずに、ひと夏通い通した。きっと教室では足の方から臭いが立ち上っていたんだろうな。その証拠に女の子には全くモテなかった。
又オレの人生は、暴飲暴食の繰り返しで、26才で結婚した時の体重は60kg有るか無しかぐらいだったものが、45年後の現在は91~92kgで80kg台にすら戻れない。
阪大病院では、「心筋症に罹患している廣瀬さんの心臓は、謂わばセスナ機のエンジン。翻って体重はジャンボ機並。如何に心臓に負担を掛けているかわかるでしょう」などと分かり易く諭してくれるのだが...
膝痛にも深刻な影響があるようだ。
と、人生折々の間違いに気づき、それに対して反省機が訪れて、人並みの社会性が身に付いてきた様だ。体型以外は...
オット、今日の話題は「反省機」では無く、「半世紀」についてだ。
29日午後帯農酪農科一年生がこんな希少な土産持参で見学にきてくれた。
裏面は
このチップスは、帯農の生徒が畑を耕し、種芋を蒔き、除草や畝上げそして収穫したじゃがいもを、深川の業者に依頼者製造したものだそうだ。嬉しくて、暫く開封出来そうにない土産だ。
そこでふと自分が帯農在学中の色々な思い出が走馬灯の様に脳裏を駆け巡ったのだ。そして、えーっと何年前だっかなと思い指折り数えてみると(勿論頭の中の指だ)、何と、オレの入学が昭和42(1967)年なので、54年前だ。なんと「半世紀」以上もの時間が流れていた!しかもオレは帯農酪農科第1期なので直系の後輩だ!
「こんにちは!」と相対している後輩達を見回しながら、頭の中のタイムマシンで54年の自分達と比べて見ると全く違う!
まず女子がいる(オレたちの時代は学校中見渡す限り女の子なんか居なかった)。羨ましい!
皆背が高い(小ぶりの男の子に聞くと171cmでクラスでは小さい方ですと、上から目線(態度ではなくこっちが上目遣いになっている。オレたちの時代は169cmのオレは中の上だった)で答えてくれる。何てこった!
面倒臭い爺さんの話しを一生懸命に聞いてくれて、メモまでとっているではないか。少しは柔らかい話で笑いを取ろうとすると、きちんと笑ってくれるし(オレたちの時代は、ポケットに手を突っ込んで、講師の話しは右の耳から左の耳)。素直過ぎて個性が無い⁈
最後に先生がダブルのジェラートを全員にご馳走したのだが、孫、イヤ、後輩達が寄って来てくれて、「僕の実家遠軽なんですけど、乳製品の加工をやりたいんですけど、味作りの秘訣は何かあるんですか?」とか、静岡から来たと言う男の子は、更に自前でトリプルを注文し「僕は牛飼いになりたくて、静岡から来ました」などとキラキラした目で話していた。
最後に記念撮影