お年頃
我が家は浄土真宗大谷派。
俗に言うお東の門徒で、檀那寺は幕別町札内にある永盛寺である。
自分が小学校低学年だから昭和33.34(1958.59)年頃の事だ。
ある日小学校から帰ったら、いつも「お帰り」と声を掛けてくれるはつばあちゃん(曽祖母)がいない。家の中は元より裏の野菜畑、更には隠居所を覗くも居ない。凄く心細かった思いが、この歳になってもまざまざと思い出されるのだ。その夜聞かされた話しは、はつばあちゃんはお寺にお参りに(報恩講)行っていたとの事だったが、その時が自分の中でお寺と言う存在を知った最初かも知れない。
信心深いはつばあちゃんは、毎日ナマンダブ、ナマンダブと称えながお仏飯を供えたり、年の暮れには仏壇から仏具を下ろして埃を払い磨いていた。時には仏壇を指しながら、「誰も見ていないからと思っても、ののさんが見てござるでな」と悪さばかりしているオレは、幾度となくたしなめられていた。
話しは遡って、岐阜の揖斐では、元禄15(1702)年に亡くなった初代宇右衛門政元以来お世話になっていた檀那寺は上善明寺であった。しかし、大正7(1918)年に初次郎一家が北海道移住してからは、つてを頼って札内の永盛寺の檀家となり、以来100余年のお付き合いになる。
家人が亡くなる都度送り出しをして頂き、或いは法事なども全て勤めいただいているのだが、寺との付き会いは年寄り任せ。我が家の仏壇にも殆どお参りもしない無信心なオレに、永盛寺の住職から「総代をお願いしたい」と声かけを頂いた。斯くや有らんと一瞬戸惑ったのだが、「はてさて、オレは3月31日には古希を迎えるんだった。年には不足はないのか!」と思わず引き受けてしまったのだ。
そして昨日永盛寺に於いて臨時総代会が開かれ、3人ずつが離任そして新任が採決承認され、新総代5人が今後の寺務に携わる事となった。
齢(よわい)70を想う「お年頃」になってしまった。
釘付け...
2日、東京在住の間もなく2才を迎える孫が遊びに来た。勿論親も一緒だ。生まれは我が家の下の孫と半年違いで同学年になるだけあって、良くも悪くもライバル関係だ。ひとしきり鍔迫り合いをした後はテレビに釘付け。
お絵描きも一緒だけど、テレビの音への反応もシンクロしている
腹減った〜
先月12日以来降雪の無い広瀬牧場周辺。
眩しい位の晴天。裏の畑を眺めてみると...
キツネの足跡が沢山!
冬は巣に閉じこもりがちで、足腰がなまってしまいそう。
「春の狩猟シーズンに向けて、運動、運動!」てな訳無いよなぁ。
業界紙曰く
「年を取ると一年が早い」と祖父達が良く言っていたものだが、最近とみに、同様に感じる(という事は自分も一端-イッパシ-の高齢者なんだ!)。
つまり、ブログの投稿間隔があっという間に1週間や10日が過ぎてしまうと言う言い訳なのだが......
と言う訳で、久しぶりに農業新聞の第一面「四季」欄に気になる記事が載っていた。
味噌汁がテーマだが
中央畜産会の農高生向けのDVDで、茨城県の農家が分娩を終えた母牛に味噌汁を飲ませる場面があるそうだ。農家曰く、精神安定剤の代わりとの事。興奮する母牛が落ち着き、ゆったりするらしい。と載っている。
我が家でも長い間、分娩直後の母牛に味噌汁を飲ませていた。
バケツにオタマ山盛りの味噌2杯を10~12Lのぬるま湯で溶いて飲ませるのだが、大抵の牛は、砂漠で身体中から奪われた水分を取り戻す様な凄い勢いで飲み、底に残った味噌をキレイに舐めている。こんなに美味しそうに飲むのならと2杯目を用意すると、尚もおいしそうに飲んでいた。それでこれなら3杯目も行くのかなと味噌を溶いて持っていくが、大半の牛はモウ充分らしく、気持ち口を付ければいい方で、見向きもしない。
その余した味噌汁を捨てるのが勿体無く、近くの牛の鼻先に持って行くも、匂いを嗅ぐだけで、口を付けた牛は皆無だった。つまり、分娩直後の牛以外飲まないようだ。
件の「四季」の農家の言う通りなら、我が家の牛は飼い主(オレ)が優しいので普段からリラックスしていて、精神安定剤としての味噌汁は必要が無かったのだ!だから飲まなかったのか!
牛飼い人生を過度に美化する積もりは無いが、中央畜産会のつくるDVDならもう少し科学的知見が欲しかったな!