啄木鳥と雀
老両親との食卓での話し。
昔々、ハツばあちゃんに「悪さばっかりしていると、キツツキのように自分で木に頭を
カンカン打ち付けないと、エサが食べられ無くなるんじゃ!」って言われた話しをしたら、
間もなく96才になるオヤジが話しの全貌を聞かせてくれた。
ハツばあちゃんが言うに
「スズメの顔をよく見よの。
クチバシの下や頰が黒くなっているじゃろ!
昔むかし、あるスズメが、親が亡くなったとの知らせを受けた。
一刻も早く親の顔が見たいばっかりに、
顔の化粧や歯に鉄漿をつけるのももどかしく、慌てて逢いに出かけた。
それでスズメは嘴の下から喉にかけて鉄漿が流れた跡が付き、
頬にもついてしまったそうな。」
「それに引き換えキツツキは、親の訃報を聞いても親に会うよりもきちんと化粧や身繕いを優先して、
慌てる様子も無く出掛けて行ったそうな。
そんな親不孝なキツツキはそれ以降、エサを食べる時は、木に頭をカンカン、カンカン
と、打ちつけないとエサが食べられなくなったんじゃ。
親不孝をしたキツツキは、あ、イタタ!痛た!と思っても、自分で頭を木に打ちつけないと
エサが食べられ無くなったんじゃ。」
(コンクリート製の電柱のステップ用のネジ穴をつっついている。)
それに引き換えスズメは
「慌てて出かけたもんだから、顔も煤けたまま。
頬やアゴに鉄漿の跡が残るザッシも無い顔になってしまったけど、
人間様もよう口に出来ない米を真っ先に食べられるんじゃ!」
と、「兎と亀」や「猿と蟹」の様に、啄木鳥と雀が対になった話だったんだ。
明治9年生まれのハツばあちゃんの思い出を語れる。
何と幸せな事か。
キレイ。だけどジャマ!
19日15cm.そして今日も同じくらい雪が降った。
翌日には晴天になり、雪を乗せている木々と抜けるような青空とのコントラストが幻想的で美しい。
子供の頃から大好きな風景だ。
が......
現実は除雪をしなきゃ。
吹雪こうものならサイテー
今朝は風が出てきているが、酷くならない事を...
と、遠く過ぎ去った現役の頃を、思い出している。
暖かな部屋の窓から...
阪神淡路大震災
今日は令和5(2023)年1月17日。
阪神淡路大震災から丁度28年の歳月が流れたと、朝からTVニュースで流れている。
28年前とは平成7(1995)年の事だ。
「その一報」は、帯広厚生病院の一室で聞いた。
当時はまだ42才で牛飼いの現役だったので入院中で有りながらも、毎日午前4時前には
目を覚まし、ラジオを聴いていた。
その日もラジオをつける。
そして深夜放送も終わり、午前5時半からは『エノさんのおはようさ〜ん』が始まった。
始まって間もなくMCの『エノさん』が突然「...たった今東京のスタジオが揺れ始めました。
地震の様です。......中々収まりませんねぇ⁈...しかし、余り酷くはならない様です......。」
そして番組が再開され、各地の震度が時折情報として流されていた。
一時間の番組の中でMCのエノさんも「この地震は、名古屋から関西方面にかけてひどくなっている様です。」
更にエノさんの声は、「不思議な事に大阪から兵庫、特に神戸辺りの情報が入ってこないです。
何か有ったんでしょうか?」
「さあ時刻は間も無く6時半になります。この辺で『エノさんのおはようさん』は時間となりますが、
地震の情報は引き続きこのチャンネルでお伝えします。ではまた明日」と番組が終わった。
この後、詳細が判明して続々と被害がテレビなどでも報じられはじめると、ヘリコプターなどによる
上空からの映像にことばを失ってしまった。
神戸市安佐地区上空からは、倒壊した住宅地のあちこちから火の手があがり、又、数百メートルに渡り高速道路の
橋脚が折れて倒れ、うえを走っていた車は元より、下を走っていた車列の上にその橋桁が落下し、車はぺちゃんこ。運転者は圧死。
目を覆うばかりの甚大な被害が報じられていた。
入院期間中毎日24時間、ヘリによる上空からの神戸市の被害情報がテレビから流される。
倒壊した家、ビルなどから奇跡的に助け出される人。
ニュースでは「72時間以内に助け出されなければ、生還の可能性は限りなくゼロに近づく」などと
専門家の意見なども流れてくる。
消火設備は壊れ、また瓦礫が散乱していて消防活動も遅々として進まず、人が生きていられるで有ろうその72時間の間にも
発生した炎はずんずんと瓦礫の海をツナミのように拡がっていく。
その映像は恐ろしく、まるで生き地獄。息苦しくなった。
さてその時、何故自分は入院していたのか?
前年春に受けたJAの検診で、右の肺の映像に小さな「影」が認められ、詳しい検査を勧められた。
痛くも痒くもないので半年間放置。12月中旬精密検査を受けると、その肺の「影」が
大きくなっていると指摘され、さらに三日間程の検査入院をした。
CT.MRI.更には肺へのカテーテル検査(死ぬかと思うくらい苦しかったが、死ななかった)
そのカテーテルは肺の「影」の部分が癌かどうかサンプルを採取する為だったのだが、
結局採取は出来なかった。
担当医の説明。
肺の「影」は多分肺の外部に発生していると思われる。
そして春から半年後の映像では「それ」は大きくなっている。
一刻の猶予も無い。
診断は、肺の一部を切除しましょうと言うものだった。
善は急げですが、間もなく正月で病院は休みに入るので、年明けの1月4日入院
7日手術と行きましょうとの事だった。年明けとは当に平成7年の事で、阪神淡路大震災の10日ほど前だった。
さて右肺の下葉を切除し、サンプル検査の結果...
癌じゃ無かったとさ!
何でも、肺の一部が化膿していたとの事。
それじゃ、切らなくても良かったのでは!との私の抗議に担当医は
「原因不明ながら化膿槽があった。そしてそれが万が一破裂すると、化膿菌が体中にまわると敗血症に
なる可能性が大きいので、切除した」そうだ。
肺の切除前は、牛を追って走り回ったり、トラクターを取りに1キロ以上走ったり、ソフトボールやスキー或いは簡単な登山なども付き合い程度はやっていた。
しかしその後は、息切れなんて言うものではなく、呼吸困難に直ぐ陥り、運動制限せざるを得なくなった。
左右五葉に分かれている肺の一つを切除すると言う事は、単純に考えても肺の機能が20%減少している。
苦しい筈だ!
毎年阪神淡路大震災の日が近づくと、「癌」かもとの濡れ衣を着せられ、肺の5分の1を切除した結果として今も続く呼吸困難と共に
息苦しさを感じる。
光芒一閃
藤丸7Fで開かれているmilk &natural cheese fairも今日で4日目。
残すところ明日1日。
昨年夏には、122年の歴史を持つ藤丸が、R5年1月で閉店するとのニュースが流れていた。
振り返ると、我々も礼服を誂えるとか、昨年は古希祝いを開いて貰ったお礼の品を仕入れるとか、
一年に一二度しか利用しなくなっていた。
これではいくら藤丸でも、維持する事は困難な事は火を見るより明らかな事だった。
釧路の丸三鶴屋が20年程前、旭川のデパートも数年前と、閉鎖が相次ぎ、デパート業界の厳しさは
巷間言われていた事だが、いよいよ"帯広のヘソ"藤丸が閉鎖と決まると、1月2日の
初売りでは福袋コーナーでは長蛇の列だ。
そして今回の fairでは想像以上の人の入りだし、他のフロアでも往時の賑わいだ。
普段からこれくらいの賑わいが有ればとも思うが、それもイタズラな延命措置でしか無いのだけれど⁈
いずれにせよ、ロウソクの火が尽きる時の様に、藤丸は最後の光芒を放っている。
今日の牛舎
12日からビートの生パルプの貯蔵が始まった。
国道38号沿いにあるニッテン芽室製糖所は我が家から6km足らずの所にあるため、
製糖加工が始まる11月頃より、乳牛の飼料として自分で運んで与えている。
ビートパルプの形状。
このビートパルプの飼料価値は非常に高く、乳脂肪分のアップが図られる。
そんなことで、今年は1月24日頃に終了する為(20~30年前までは3月10頃迄、最近でも2月中旬くらいまでは加工していたのだが、
昨年はビートの作柄が良くないのは、ここにも反映されてる)息子は貯蔵用(サイレージ)として
1日6~7往復のピストン輸送をしているのだ。
自分が小学校6年生の頃、当時製糖所は川西町稲田にあった。
夕方の搾乳を母に任せ、父がシバウラS-17と言うトラクターの運転席横にオレを立たせ、馬車を改造したトレーラー
を牽引し、運びに行ったものだ。
スコップで積み込む為、猫の手も借りたいの諺通り自分も繰り返し連れて行かれ、帰宅は午後9時過ぎ。
オレは家に到着後開放されたが、父の事は記憶にはない。多分それからパルプをスコップで
全て下ろしてから晩御飯だったのだろう。
11月下旬と言えば深秋或いは初冬。トラクターはオープンカーなので片道小一時間のドライブは無茶苦茶寒かった。
当時(オット60年も前の事か)街路灯は殆ど無く灯りと言えばトラクターのヘッドライトと赤いテールランプ。そして時折り点滅する黄色のウインカーばかり。
しかし漆黒の闇のせいか、夜空は満点の星々が綺麗だった。
長く生きてきたせいか、生パルプひとつとっても思い出がゾロゾロ吹きだしてくる。
今日は繁殖検診なのか、生パルプを貯蔵しているこのバンカーサイロの横には牛達が、
連動スタンチョンに繋がれ、待ち侘びている。
人も牛も寒いのにご苦労さん!