''の"が入ってる、の!
節分、春分の日も過ぎ、今日は祭日で天候も良かったので、何台もの車がウエモンズハートの駐車場に入れ替わり立ち替わり入ってくれるが、
冬季休業の看板を見ては残念そうに帰って行く。
問い合わせの電話も多い。
大勢の方がウエモンズハートのオープンを待ちかねてくれている。
本当嬉しく、しかし足を運んでくれた方々にはお詫び申し上げます。
あと20日弱、3月2日オープンです。
前置きはさて置き、今日は"の"についてだった。
今日は所謂「建国記念日」で祝日。
自分はずーっと「けんこくきねんび」と呼び習わしていたが、
実際には「けんこくきねん"の"ひ」が本来の呼称だとこの年になって知った。
戦前は「紀元節」と言われていた祝日で、古事記に神武天皇が初めて日本と言う国を作った日と言う記録から、
明治6年に制定されたそうだ。
そして昭和15年には国威発揚を目的として、皇国紀元2600年の奉賛会が大々的に行われたものだと、
父や祖父の種治が語っていた。
更に調べて見ると、敗戦後GHQ指令で、「紀元節」は神話に基づいていて、明確な根拠は無いと廃止されていた。
そして漸く21年後の昭和41(1966)年に「建国をしのび、国を愛する心を養う日」として
「建国記念の日」として制定された。
祝日として制定されたこの年は自分が中学2年生の2月の事だが、
誰に遠慮して"の"を入れたのか、
当時の担任の小椋先生は詳しくは語っていなかった。
なるほど。"の"が入ってる。
心友
ふりさけ見れば我が人生、農家に生まれ農業を生業としてはや70年が過ぎ、今はそれもリタイヤしている隠居の身だ。
扨、我が家の目の前の市道は芽室町との境界道路。所謂国境地帯だ。
その国境⁉︎を挟んで数百メートルの所にもう一軒酪農家がある。
その○○牧場は隣りとは言え芽室町なので、行政的やJAでは全く接点はない。
父や祖父の代は知人程度の付き合いだったし、同年代の子供は自分の2つ下を頭に娘が4人いると言う程度の認識しか無かった。
自分が勝農酪農科を卒業し、早来町の竹田牧場での実習を経て就農。数年を経ずしてそのM牧場の娘婿と言う人との立ち話から、付き合いが始まるのだ。
多分トラクターで初めてすれ違った時、おおこいつは○○牧場の婿さんか?噂には聞いていたが取り敢えず初対面の挨拶位とトラクターを止め、どちらからとも無く「宜しくお願いします。」
そして一言二言言葉を交わすと、その○○牧場に入婿した△君は勝農酪農科の二級後輩であり、彼も又自分と同じく早来の山田牧場に2年ほど実習に行っていて、
その早来でオレの事は聞いて知っていると言うではないか。
噂の内容の好悪は分からないが、同じ様な経験をした者同士意気投合し今に至るのだ(今迄気持ち良く付き合えたので屹度悪い噂ではない⁉︎)。
折に触れ畑の隅で一緒に一服したり、牛舎を訪ねたり、作業機を貸し借りもした。
また、牛乳余りで生産乳の一部に食紅を入れて廃棄したり、国の補助事業についても使い勝手の良し悪しを論じたりなど
時宜に即応した話しで常に盛り上がっていた。
昭和63年に彼の牛舎が失火で全焼した時には、咄嗟の判断で全頭預かり、1週間程、家の牛達と交互に搾り、バルククーラーも別々にして出荷した。
そんなことが有って以来より秘密めいた家族の話しなどもするようになったし、
うちの婿はいつも廣瀬の息子と行き違う度に立ち話しで仕事が進まん!と斜に構えて気難しい△君の義父(○○牧場のオヤジ)も
それ以来なにくれと無く立ち寄ってくれる様になった。
お互い年を重ね還暦を過ぎる頃から、自分が拡張型心筋症の診断を受けた後もいろいろはげましてくれるし、
今度は彼が胃癌になり胃を切除した後抗癌治療を続けていた矢先今度は違う場所に転移している事が判明。
早い内の手術を勧められているそうだ。
50年間お互い適度な距離感で付き合って来たが、昨年12月以来会っていない。そろそろ様子伺いをしなきゃと思っていた。
年が明け、2月になる頃から△君の様子が気になっていた。そんな折の昨日午後体験教室で本を読んでいると、
入り口の引き戸をソロっと開け片目でこちらを伺う男がいるではないか。
逆光の中、目を凝らして見ると、何と△君ではないか。
年をとり病を得てからは、自分にとって△君は、かけがえの無いない心友である事に気づいた!
なに?これ!
「くよくよするな!めそめそ泣くな!節分過ぎれば陽はまた昇る!」
昔、ラジオから、人生相談?か、占いの番組で斉藤セイホウさん?が毎回叫んでいた声を
思い出す。
そう、今日は日本全国節分。
と言う事で、部屋や廊下に潜む鬼を追い出す為、孫が落花生を数粒ずつ撒いていた。
その落花生を割って食べようと割ったら...
なんじゃこりゃ?真っ黒⁉︎
新種の落花生か⁉︎
薄皮はやや焦げ臭がするが、美味しい。
はつばあちゃん
昭和38年2月2日早朝、小学1年の妹が「兄ちゃん、はつばあちゃんが死んだみたいだよ」と
部屋に飛び込んできた。未明のまどろみの中での妹の声に「えーッ、まさか⁉︎」と言いつつ布団の中でグズグズしていると、
妹は焦れたように「兄ちゃん!ホントだっては!早く早く!」と急きたてる。
妹のただならぬ様子に漸く跳ね起き、階下のばあちゃんの部屋に行くと、緑ヶ丘の開業医でかかりつけ医の
佐藤先生が診に来てくれていて、丁度家人に臨終を知らせている所だった。
はつばあちゃんは明治9年生まれで私の曽祖母。
数えで88才の高齢であったが、耳が遠いくらいで病気知らず。前日の晩御飯では
「おいしい、おいしい」と洋皿一杯のライスカレーを平らげていたので、はつばあちゃんの死は
余りにも突然すぎて、信じられなかった。
おばあちゃん本人も、自分の死に気付いていないのではと思うくらい、穏やかな顔をしていた。
時は1963年。東京オリンピックの前の年で自分が小学5年生。
丁度60年前の今日の事だ。
長章さんご苦労様!
帯広物語り。
一つの幕が降りる!
バトンを次の世代に繋ぐ事が出来なかった無念さが...
藤丸で1月12日から16日まで開催されたmilk@ natural cheese fairに出店させていただいた時、
会場を確認する為回って来た長章さんと、社長として最後の写真を撮らせて貰った
長章さんは昭和63年、私がJCに入会した時の理事長であり、家内の実兄の亡片所幸一とは大親友。
又平成2年には長章さん始め10名程のJCメンバーと共に10日間程、統一されたばかりのドイツ旅行に
私の代わりに眞由美を連れて行ってもらっている。
長章さんはそんな友人でもある。
13日、イベント会場では長章さんは「後20日程になってしまいました。万感胸に迫るものが有ります。
寝付かれない日々です。」と話していた。