椿山課長の...⁇
「誰一人として会話も無い大勢の人と一緒に、ゾロゾロと同じ方向に向かって歩いていたんだ。
しばらく歩くと、閻魔様のいる所についたんだな。そこで順番待ちしながら前の様子が気になって
ウロウロしていたら、青鬼が持っていた竹ボーキで、チョロチョロとうるさい奴だ。
お前は来なくていいから、あっちに行け!って追い払われしまったんだ。
そこでフッと我に帰ったら、何と病院のベッドの上だ。何でオレはこんな所に居るんだと、事情が分かるまで
混乱状態だった。」と午前に退院して来たオヤジが、どんな状況で入院したのか経緯が分からなかったと、
まち兼ねていた家族の前で話し始めた。
「ん?オヤジはどこまで本当の事言ってるんだ?この話、浅田次郎の『椿山課長の七日間』の出だしと同じだぞ⁉︎」
その小説では、『とあるデパートに勤める椿山課長が心筋梗塞(だったか⁉︎)で亡くなるところから物語りははじまる。
勤務中に急に苦しくなり気を失って倒れてしまったようだけど、我に帰ってみると色々な人達に混って同じ方向に歩いている自分がいた。
しばらく歩くと閻魔様の前に連れて行かれて初めて、椿山課長は自分が死んだ事に気づくのだった。
そこでは同じ日に亡くなった者で、生前に強い想いを残している者の中から抽選で3名に1週間だけ沙婆に戻してくれる事を知り手を挙げる。
そして椿山課長と少年、そしてヤクザの親分の3人が選ばれるのだが、姿かたちは家族や知人に気づかれない様に、
全く別人となって行動しなければならない、と言う厳しい決まりがあるのだ......
浅田次郎さんは、仏教の中陰と言う考え方をベースに小説を作り上げていて、思い出に残る一冊でもあるが、
その物語では、妻が部下と浮気していてた事を知ってしまうなど、知らなくてもいい事まで知ってしまい、
生前に強い思いを残したまま、成仏出来ずに満中陰を迎える⁉︎だったか?そんな小説だっが、
オヤジの話しはその出だしにそっくりだ。
前回も肺炎で入院したが、1週間後の7月3日に退院した老父が、7月14日に肺炎を再発して緊急入院し、翌15日には非常危険な状態になり、
医師からは万が一の事もありうるので、面会を希望する家族の方には許可しますと言われた。
その時の様子は声かけにも返事はなく頭から汗が吹き出し、荒い息遣いとじっとして居られない様子に、
もうこれまでかと母や妹達も感じたようだったが、どうもその間の話しを親父はしているらしい。
7月31日に、医師からオヤジの様子を伺いたい旨病院に問い合わせると、8月2日の午後3時半に
先生から説明があった。
「お父さんは年相応に心臓が弱っています。心臓に負担をかけない様減塩に努めてもらい、
退院後も週に1回は受信する事」を条件に今日午前、漸く退院してきたのだった。
カボチャ
長男がシバウラにロータリーを付けてくれたので、昨日早朝カボチャの中耕をした。
今朝は涼しい内にホーで株間の除草をしようと3時半に起きたが、雨降りだ。
明日の朝は晴れてくれる事を祈ろう。
老父
昨日は30℃を超えるなど暑い日が続いている。
そんな中、老父(自分のことでは無く、96才になる父の事)は昨日早朝から吐くなど食欲が無くなっていた。
自身忙しさにかまけて、老母に一日様子を見て貰っていたが、全く良くならず今朝も同じだ。
吐くので、薬も服用できない。
更に38℃の発熱。
素人ながら、脱水症の危険を感じ、朝8:00時かかりつけの北斗病院に出かけて直に相談。
血液検査を始め、レントゲン、CT、心電図など幾つも検査を受けた。
総合診療科の朝日先生の診断結果、肺炎の症状がでていると言う事で緊急入院した。
つまり、嘔吐物の一部が気管に入り、誤嚥性肺炎になってしまったらしい。
老人の死因の第一位は「癌」、二位は「心不全」そして三位は「肺炎」だそうだ。
カボチャ
拡張型心筋症と診断されて以来だから、農作業なんて10年ぶりか?
先月下旬、カボチャのタネを蒔いた。
そしてここ2日程、発芽したカボチャの除草をした。
ホーを使うのも10年ぶり。
10年使わずに痩せ細ってしまった腕や腰の筋肉が痛だるい。
原っぱ
今日の農業新聞12面
緑肥用に栽培していたレンゲ畑に「バスで乗り付け園児ら遊ばせる...」
SNS「ダメなの⁉︎」
今から35年程前、三男の通う「みのり保育園」の父母会会長をやっていた時のこと。
「園児達のピクニックを近くの原っぱで開いたら?」と提案するお母さんがいた。
「公園で無くて、原っぱ?何処の?」と自分。
すると「園の南側にある高台に上がったすぐの所よ。」と無邪気に言うではないか。
「エェ〜ッ、あそこは我が家の牧草畑だから、それは無理。刈り取った直後なら問題はないけど、提案されている時期はムリだわ」
との私の話しに彼女は「ボクソウバタケって?」
結婚した昭和53年には、東京都のとある小学校の6年生の男の子から「コーヒー牛乳って、牛にコーヒーを飲ませたらでるんですか⁉︎」
と言った電話があった。牛も人も哺乳類で、赤ちゃんを育てる為にお乳を出すんだよと伝えると
「僕のお母さんが妹の○◯ちゃんにオッパイをあげていたのと一緒だ。それじゃコーヒー味の牛乳は出ないね」と納得していたが、
これらから生消の乖離に気づき、食料の生産について「生産者自ら伝えなきゃ」と気付き、
1991年から今の十勝農楽校を本格的に始めたのだった。
食べ物を生産する人がいて命をつなげられ、その食べ物を食べてくれる人がいて我々生産者も生きていける。
生産者と消費者は「お互いを支え合う運命共同体」だ。
であればこそ、伝える事は農家の大事な農作業でもある。