5分間のショー
午前5:07、新聞からふと目を上げると、日の出前の朝焼けがはじまっていた。
5:10、随分と赤味を増してきた。
5:11、朝日が上空の雲の襞を浮かび上がらせる
5:12、更にさらに、
その1、2分後雲の裏側に太陽が上がったのか、一瞬にして朝焼けは雲散霧消!
続「帯広の森」とオレ
「帯広の森」とオレ。
昨年5月26日以来10ヶ月ぶりに続編を...
人口20万都市を目指して帯広市市街地を取り囲むように計画された帯広の森構想に
振り回され、ドサクサに紛れ、あわよくば海外へ逃避しようと妄想は膨らんだのだが、
オヤジの迫力のまえにあえ無く潰えてしまった。
さて、406.5haの農地を緑地化する帯広の森構想は昭和49年あたりから、土地の買い上げが始まり同時に、
市民植樹祭もはじまる。
昨年まで耕されていた畑に市民がてんでに入り込み次々と木が植えられ、先人の開拓の苦労を無にする様で実に悲しい風景だった。
2年目の植樹祭が終わってみると、毎年国の補助金で買い上げる土地の面積に対して植樹の面積が追いつかず、
耕作放棄地の様にアカザの林立する畑が目立ち始めた。
帯広の森構想は帯広市議会でたった1票差で可決された事業なので、買い上げた農地を荒らしたまま放置する事には市の公園緑地課も頭を悩ませていた。
そこに目を付けたオヤジが公園緑地課に出かけ、植樹できなかった農地を草地にして管理すると言う名目で
牧草の種子代と整地、播種代金を頂いて管理委託を受ける様になった。
昭和50年の事である。
そんなオヤジの動きは露知らず、オヤジの命ずるまま愛車John Deere2020にデスクハローを取り付け
7.5haに林立するアカザを踏み倒し鋤込み、バイオリンと言う播種機で牧草の種を蒔いた。
当時、我が家の農地は22.7haしか無い中、牧草やデントコーン、家畜ビート言った飼料作物の他に
小豆や大豆なども作っていて、少しずつではあるが乳牛も増頭し始め、飼料作物が不足し始めていた矢先、
市から管理委託料を頂き加えて飼料不足にも対処できる一石二鳥の出来事だった。
そして翌年も委託管理料を頂きながら5haくらいを草地化するのだった。
つづく...
冨岡一也
冨岡一也と言う男。
大樹から天馬街道を超えた浦河町で酪農を営んでいる。
彼は帯広を生活の拠り所としている部分が多く、病院通いも含めて1〜2ヶ月に一度は
帯広に足を運んでいる様だ。
今回はコロナ禍を挟んで7年ぶりに里帰りした長野県に住む弟さん夫婦を案内して、十勝をドライブして
楽しみ、その足で我が家にも寄ってくれたようだ。
私の隣が一也君。そして弟さん夫婦とお嬢さん。
「なっぞら」や「銀の匙」はたまた30年前の「ボク生き(ボクらはみんな生きている)」と言う
中居正広司会のフジテレビの番組に出演した話しで盛り上がる(俺だけかも⁉︎)。
そんな中、「廣瀬さん、去年の春、帯広の森とオレをタイトルとした投稿が毎回『つづく』で締めていて、
数回を経ずして止まったままなんだよなぁ!」と、この「ウエモンのよもやま話」の読者でもある一也君が、曰うではないか。
年の始め、昔のよもやま話を点検していたら「帯広の森とオレ」が尻切れトンボのままだった事に自分自身気づいてはいたのだが...
一也君に促された事もあり、呆ける前に自分の記憶の整理も含めて続編を書いて見るかなぁ。