親の心子知らず
昨日一日、瀕死の状態だった!勿論形容だ⁉︎
「何故今になって、こんなに痛いの?イタタタ‼︎」
回診の榊原先生曰く「肋骨付近は非常に沢山の神経が通っていて、そこを切っているのでね〜!胸の真ん中の胸骨を切った方が寧ろ痛みは少ないようですね!何れにせよ日にち薬ですよ。」
命永らえる為の痛さだ...耐えるしか無い!
立つも地獄、座るも地獄。寝ても地獄、寝返りも地獄、車椅子もトイレも全て地獄‼︎咳が出たらもう即死!この一日半で何度即死したか⁈
だから、勿論形容だ‼︎
何らかの姿勢でフリーズする!息も小出しだ!生き続けるには中庸、これしか無い!
まんじりともせず翌8月1日の朝を迎えるが...。トイレは行きたいし...
やや?幾分楽か?日にちと言う薬が効き始めたか⁉︎能書き通りだ‼︎
こんな風に希望の一日の朝を迎えた‼︎
話しは7/25の早朝、手術直前に戻る。
故郷帯広では、父(90才)が二年程前に手に入れたお地蔵さんの祠がこのほど完成し昨日24日にお地蔵さんを安置し落慶法要を営んだ、と父から病院に初めての電話が有った。
午前5時半過ぎだ!
父の言う、その祠は、落慶法要と言わしめる程の荘厳さは無く、畳一畳分の礎石の上に広さは半畳、高さは五尺程度ではあるが...
建立したのは中札内村上札内の山小屋の横で、同村の同朋寺住職を導師に身近な母(87才)かたの叔母や私の妹夫婦など15名で行ったそうだ!
本格的だが、地蔵堂を建てるという事、これには理由がある。
昨年春のある朝食後(三世代一緒に食事が摂れるのがこの時間)の事だ。
父曰く、我が家が北海道に来てから6名の物故者が有り、そのお骨は檀那寺の納骨堂に納まっているけれど、ほぼ満席と言う事は皆んなも知っているだろう。オレとバアさんももう90才だ。何時お迎えがあっても不足の無い歳だ。
それは良いんだけど、骨箱に納まった後二人分納まるスペースが無いんだよ!
分骨し一部は納骨堂、残りを京都のお東の本山に合祀して貰うのも一つだ。しかし、我が家が岐阜から北海道に来て初めて鍬を下ろし現在の繁栄の基礎を築いたのが上札内だ。幸い、上札内には65町の山林が有りそこには山小屋も建てた。そしてオレと婆さんは月に数度は行っているし、皆も自由に行き昼寝や快適に泊まることも出来る。
そんな場所にお地蔵さんを祀る祠を建て、地下に分骨した骨を安置しようと思う。そんな話しだった。
今回落慶式を済ませ 今生の懸念を又一つ解消出来、電話ではホッと一安心の様子だったが、父は続けて「今日は朝からおまえの心臓の手術の日だ。調子はどうだ。オレらはもう年で大阪迄顔すら見に行ってやれられんから、今庭先から花を摘んで来て仏壇に飾り、その仏壇の祖父さんや祖母さんそして先祖に手術の無事を頼んだところだ。それしかやってやれん。ま、ガンバレや!」と。
ありがたい事だ!
手術が無事終わり順調な回復ぶりは報告の通りだ。
そして7/31未明、又々痛みで目がさめる。痛み止めの薬を貰うには未だ一時間か!そんな時、二年前にお地蔵さんを手に入れてから、過密な納骨堂から分骨の話し。お地蔵さんを安置する祠と建立場所の話しを思い出していた。建立はこの春の山の雪解けを待って5月下旬に行なった。
オレが心臓の手術を受けるかどうか阪大病院に検査入院した後のことだ。
筋芽細胞の培養も順調そのもので、その期間は7週間必要な為6/14〜7/13まで一時帰宅した。
帰宅時は家族兄妹、とりわけ両親や息子達とその家族。そしてウエモンズハートスタッフ、友人ら大勢が喜こんでくれ、その間治験に向けての再入院までに三件の壮行会も開いて貰った。
一時帰宅して程なく父が朝食時「7月24日は地蔵盆と言って、内地では町内単位で読経したり祭りや縁日まで開く様なお祭りをやるらしいんだ。我が家もお地蔵さんの祠も完成したから、この地蔵盆の日にお地蔵さんを安置し落慶法要をやるかな⁉︎」
我ら子や孫に異論が有ろう筈は無い「どうぞ御気の済む様に!」
さて、時間は7月31日早朝にもどる。痛みをこらえながら...
我々は「お地蔵さん」と親しみを込めて呼んで居るけれど、どんなご利益があるんだろうな...と、iphonで検索を始める。キーワードを入力!検索!間違った情報も数多あるらしいが、兎に角便利だ!
お地蔵さんの本名は「地蔵菩薩」。菩薩とは「成仏を求める修行者」の事。転じて「共に歩み教え導く」と捉え、必要に応じて色々なものに姿を変え、八面六臂の活躍をするのが菩薩様だ。
多くは村々の子供を守る神さまとして里ごとに祀られているそうだ。
また、成仏する事の知らない幼な子が賽の河原で「一つトトさまのため、二つかか様のため...」と石積みをして遊んでいると、そこに赤鬼や青鬼がその小石の山を突き崩しに来る。
怖くて逃げ惑う先がお地蔵さんの袖の下だ。
こどもの守り神たる所以だ。
そこまで来て、はて?
二年前にお地蔵さんを手に入れたのはオレが拡張型心筋症と診断されて余命宣告を受け、更に悪化し歩行もままならない日々を過ごしている時期では無いか⁉︎
そして祠の建立だ!そんな折、心筋症が更に進み昨年10月から今年1月末で4ヶ月弱入院。最悪の時だった!
息子文彦が先に死ぬかも知れない。可能性は大だ。
もしその時が来たら、初次郎、はつ、種治、シズ、トクそして順子の6人の遺骨も分骨して整理。地蔵堂に収骨合祀。過密な納骨堂の整理の為の広瀬一族の納骨堂を兼ねたお地蔵さんの祠を建て、先に逝くかも知れない息子が寂しくない様手はずを整えたのだろう⁉︎65才になっても賽の河原で遊ぶ幼子と同じなのかもしれない。手術日前日に落慶法要を兼ねた時宜。齢90を迎える両親のさらなる深い愛情、慈しみの心に気付いたのだ‼︎
泣けた...素直に滂沱し、泣けた。
30日午後4時半
つい先、三男夫婦が帰って行った。
昨日の午後東京から来てくれ、家内と同じ春日丘ハウスに宿泊。そして今日午前10時再び病院にたずねてくれた。昼食はデイルームで久しぶりの団欒だ!
家内とのツーショットも撮ってもらう!
しかしなめていた!
術後の経過である。
背中からの点滴が昨日朝終わり、もう無用の長物の如く思っていた差し込まれていた柔らかなプラスチック針を、今日昼に中江先生に抜いて貰い清々した。
2〜3じかん程と間隔が広がり始めていた咳痰がつい先程でた!
痛〜イ!
術後最も痛く、咳き込む度釘を打ち込むような痛さだ‼︎打ち込まれた経験はないので、あくまでも形容だ!
なんてこった!今針を抜いたばかりなのに‼︎‼︎
治験先輩で東北の♂さんは「落ち着くまで2週間ほど掛かった」と言っていて、「オレは1週間もたたず痛みが漸減⁉︎どうだ強靭な身体の持ち主だろー!」なんてナメきっていた!
ゴホンと言えば...イタ・タ・タ・タッ!!!
30日午前3時
タイトルはどーって事ない。今当にこのメールを打っている瞬間だ。
左背中の肩甲骨の内側が鈍く痛み始めてきた。昨日まで背中を拭いてくれた家内が指摘する迄気づかなかった鎮痛剤用の注射針の辺りだ。
そこの部位を下にして寝ていると、イズク痛い。身体を起こした起坐(医学専門用語が増えてしまった)の状態でいると痛みが和らぎずいぶん楽だ⁉︎
術後、左胸の傷の辺りばかりが気になっていたけど、その背中からの麻酔が昨日朝切れた頃から看護師がしきりに痛みの確認をしにきていた。
こう言う事だったか⁉︎
そして今、痰を出そうとする咳が出たけれど、その痛みはCVCUに居た頃に経験した様な痛み‼︎結構イタイ。
まだまだ鎮痛剤の服用をさせて貰わないと、自立はまだ覚束ない‼︎
阪大病院916号室からの速報でした。
申し送り
ボールペンでは無く、隣のバネ秤の方だ。ボトル入りの鎮痛剤の使用量を計る専用のものだ。昨日午後梶本看護婦が薬液の残量を調べるのに使っているのを見て、「ん?ミニチュアの様な秤、孫のリンと遊ぶのに持って来いだ!」と思い付き所望したのだ。
「大丈夫と思いますけど、先生の許可が必要なので今夜担当の看護士に話しておきます。」
そして翌日早朝咳と痰で苦しそうに咳き込んでいる所に夜担当の赤松看護師が様子見に来た。呼吸が落ち着いた頃「ところで赤松さん、この小さなバネ秤の事なんだけど...」「あぁ、欲しいんだって?聞いてるよ!」
そして朝、中江先生の弟弟子(後輩先生)の榊原先生が一人で部屋にやって来て「首からの点滴管抜きますネ」とおっしゃり作業を進めながら「今日は血圧が高めの様だけど、心臓のドキドキなどありませんか?」
「そう言ったドキドキは無いし、若い女の子を見てもドキドキしなくなったなぁ⁉︎」
榊原先生は「広瀬さんは沢山経験して来たからじゃ無いですか!」とヨイショてくれる。
調子に乗り「先生とは違って60才から下は皆んな若い子で守備範囲が広がっちゃったのかな⁉︎」
榊原先生は私の愚にもつかない下らない話しに付き合い「ボクなんか澤教授の前に出ただけでドキドキですよー」
いつも中江先生の後を小さくなって付いて歩き、殆ど話さなかったけれど、
磊落で気さくな若先生だ!(好感度急上昇)更に「ところで、あの小さなバネ秤、何に使うんですか?」「へー、あんな秤孫さんと遊ぶ道具になるんですか〜」
本当に先生に話が伝わってる‼︎‼︎
そして昼担当の谷口看護婦が昼過ぎ「広瀬さん、秤持ってきたよ〜!お孫さんと遊ぶんだって?何して遊ぶの?」と持ってきてくれた。
阪大病院凄い!こんな些細なことでも完璧に申し送られいる!
こんな事で驚く勿れ!
前回の入院中、一度薬の飲み間違いがあった。それからという物三度の病棟移動は内服薬の看護師管理になった。
こんな事もあった。夕食時に看護婦が入ってきて「あら?広瀬さんゴハンのお供?」と、塩辛を食べているが見つかってしまった。
「その外のお供は?」とやんわり聴取。「梅干し、コンブの佃煮、ふりかけ...」
「広瀬さんは心臓で入院していて、塩分制限も治療の内ですよ〜‼︎」それからというもの、転棟の度「ゴハンのお供」を指摘される。
何れも、患者の平癒、快気を願って日夜努力をしていればこその親心だ‼︎
生還!
今日7/28昼、一般病棟(個室)に戻る。
手術は25日午前8:45からだ。
そして手術台へ名前、手術の部位など自主申告させられる。
(死刑囚も突然その日の朝告げられ、粛々と刑場に向かい滞り無く執行されるらしいが粛々と物事が進んで行く事を実感!)
ものの10分程で意識が無くなる。
目が覚めて枕頭の時計を見ると4:半だ。夕方とか...!勿論ICUだ。
まず鼻から栄養チューブ。口には呼吸チューブ。この呼吸チューブが曲者。呼気のタイミングが合わず、同時に痰が酷く息が出来ていない様な感じ。痰を出そうと咳き込んでみるもスカスカ空気が抜けて、どうにもならず苦しい!そんな未知の相手との戦いが2時間ほど続く!
それからが新たな戦いがすぐ始まるのだ。
手術をした位置が左胸のすぐ下。
横切りで長さ10数センチ。ブラジャーをすれば傷跡が隠れるくらいの位置だ(オレはブラはしないけどね!年を重ねれば、自然と隠れるか...)。傷は小さいけれど肋骨を一本切っているらしく、そこが咳をする度に激痛が襲う!
どれ位の頻度の激痛に悩まされたか...計算して見よう。
ローソンセレクトティッシュ一箱320枚(160組)×1.5箱÷10時間÷60分÷4(一回平均四度は痰が出る)この頻度で咳のための激痛に一晩悩まされる!
午前4:30看護婦に愁訴すると飲む鎮痛剤を出してくれた。そんなに我慢しないで早く言ってくれれば!だって(抵抗する気力無し)。
2時間程すると痛みが和らぐが咳をする時は同じの様だけど何とか頑張れる。その間幾つかの動きを要求される。
手術着から病衣に着替える時だ。
「ハイ広瀬さん身体を右に向けて見て⁈私も手伝うから!」
「う〜〜痛い!けどよっこらしょっと‼︎」
「広瀬さん力強いね。何か格闘技やって居たの?力強いわ!」
「そんなのやって無いけど百姓だから」
「ヒャクショー?」
「そう農業で牛を飼ってた!」
「え〜、虫を飼っていた?」
「ムシじゃ無くウシだ!」
「ヘェ〜むしだ」
全く噛み合わん...⁉︎
「だから、ムシじゃ無くウシ、ウシ、ウシ‼︎」
「ウシ⁈じゃあ牧場だ!すごいね〜〜」俺の痛いのを尻目に驚きの声をあげる。無邪気だ!
苦しみつつも、酪農教育ファームの必要性を文字通り痛感する。頑張るぞ〜〜‼︎!
午前6:半、少し痛みも和らぎまどろみ始める。
咳と痰は依然と出るが、強靭な心をもっているオレにはガマンができる。とはいえ、午後家内が来てくれた頃には、目元、目尻に半分乾いた目ヤニが付いて居て、何も言わずそっと拭ってくれるのであった。
体には胸からドレン。オ○ン◯ンには導尿管。その他首、両手首、背中など7〜8本の点滴チューブ。酸素マスク。一本の指先には血中酸素濃度の測定器などが付き、お茶の水博士が鉄腕アトムが誕生させるシーンを彷彿とさせる姿だ⁉︎
筋骨隆々と看護婦も認める体⁉︎のせいか、26日午後2時、集中管理室とでも言うのかCVCU室に移動させられる。ICU滞在時間は丁度24時間余り。
その後すぐにベッド横に足を下ろし腰の上げ下げ!
「車椅子大丈夫?」と有無を言わさない看護婦の命令に「ハイ⁉︎」と素直に頷くオレ‼︎
早速車椅子に乗せられ、心電図と胸部レントゲンへ...
クタクタだ!!!
CVCUのベッドに戻るなりダウン!
その間も痛み止の薬の要求配分が頭にセットされると、苦しみながらも咳と痰も器用に排出できるようになると、咳き込むオレに「ハーイ広瀬さんガンバレ!」「ハイその調子!」「上手、ジョーズ!」「ハーイよく出来たね!」「頑張ったね!」と、拍手して貰えた。何か複雑...
午後3時に家内が来てくれ、あちこちから様子伺いのメールた電話を頂いた様だ。
一人では生きて居ない。何処かにオレの事を気にとめてくれている。
楽しき哉人生!嬉しき哉人生!生きていればこそである。
そして27日が過ぎ、28日の朝が来る。
中江先生の回診があり、その後ドレンと導尿管が抜け、点滴も2本3本と外れ残るは二本のみ!
そして今日28日昼一般病棟(個室)に移る!
どうだすごいだろ〜!超特急だ!
中江先生にお聞きすると、執刀医は堂前先生、移植は澤先生と堂前先生、縫合が中江先生との事。
オレは老後を取り戻したぞ〜〜!
先生、看護師さん、コーディネーター、そして気に掛けて下さる皆さんありがとう!