続・続京都探訪
さて京都の続きだ!
翌8月28日朝、山科の地を訪ねるべくタクシーが迎えに来てくれた。時間4000円だとか⁈心臓病で弱った体に無理のない様家内が用意してくれたのだ。
畑中のロビーでタクシーの運転手さんに訪ねたい所を伝えると、「お客さんはお寺関係の方ですか?」と聞いて来た。どうしてですか?と聞くと「親鸞さんとか蓮如さん関連の寺院を回りたいと仰られるので...。以前にも天台宗関連ばかり回られたご住職の方がいらっしゃったんですよ!」と言った会話から寺院行脚が始まった。
コース採りは運転手さん任せだ。
畑中の有る祇園から山科までは約30分ほどの距離で、初めに蓮如上人ゆかりの「山科本願寺」を訪ねる。
元々東山にあった大谷本願寺が寛政6年(1465)に比叡山の僧徒(天台宗)破却され、文明10年(1478)金森道西の寄進を受けこの地に坊舎を建てたのが始まりで、3年後に松林山山科本願寺となる。
更に天文元年(1532)再び日蓮宗徒、比叡山僧徒らに襲撃、破却され本願寺は大阪石山(現、大阪城)に移り荒れ地のまま放置される。
そして200年後の享保7年(1732)から50年をかけ、蓮如上人廟を管理するま為山科本願寺がつくられる。
次は蓮如上人御廟所だ。
この廟所は、明応8年(1499)上人が85才で臨終を迎え、葬送、荼毘に付された地だ。
次は、山科別院長福寺(東御坊)。
文明10年(1478)、蓮如上人が創建し京都本願寺、野村殿御坊或いは野村殿と呼ばれていたが、山科本願寺と同時に(天分元年)破却されてしまう。
この長福寺は、享保17年(1732)東本願寺境内から移築される。
次の写真は、蓮如上人の銅像の台座だそうだ。
今迄見て来た寺院は、他宗派との争いであったり、信徒を急激に増やし強大な宗教集団を警戒する時の権力と戦いの歴史である事を痛感させられたが、この台座からは、第二次世界大戦時蓮如上人像が金属であった為他の鍋釜や寺の梵鐘と同じく供出の憂き目にも遭っている事が知れる。
長くなり過ぎ疲れてきました。
残りは後刻...
続・京都探訪
数ヶ月前、手持ちのiPhone 6からウエモンズハートのブログに投稿する方法を優秀な?スタッフに教えて貰い、阪大病院に入院しました。
難病と言われる拡張型心筋症の闘病の様子を知って貰おうとの思いで投稿していましたが、写真が搗き立ての餅の様に伸びたりひしゃげたりと随分苦労を重ね、いっぱしのブロガー気取りで居ました。最近漸く店の事務所に出入りし始め、HPをパソコンで見てみると...⁈何と、写真の多くは横倒しじゃないか!
またまた件の優秀な?スタッフに教えを請い、修正の方法をくどいくらい教えて貰いました。しかしだ、覚えの悪いオレに「社長!大丈夫です。今まで通りブログに投稿してください。その後で繰り返し修正作業をユックリ教えますから!」。(優しいだろ、ウエモンズハートのスタッフは⁈ん?忙しいのに、覚えの悪い奴には付き合っている時間が勿体無いってか!)
てな事でHPのブログでは写真が横倒しになる事が多々あると思うけど、直に修正されると思います。悪しからず‼︎
さて、京都の続きに入ります。
前回は我が家の系図の記述に沿って、京都の寺社を尋ねたと書きました。
先日の写真の再掲載です。
この系図の5行目。
「北方村天上寺空善法印ノ許ニ来ル」とある「天上寺」とは、揖斐川町坊島にある「上善明寺」の事だ。
13行目。
「文明ノ季年空善法印ノ法流ヲ受継...、家胤則法号ヲ空道法印ト名付タマフ 下山之砌山科ノ里二本願寺家八代ノ蓮如上人ノ法談海内二無比類...、信悟、帰依シ春光坊ト名付タマフ...」
この文章から廣瀬家初代家胤が始め天台宗の坊さんになり、蓮如上人に出会い浄土真宗に帰依した事が分かる。
この家胤が、親鸞上人が開いた浄土真宗に蓮如上人本人を通じて出会い帰依したと言うこの故事から、両上人の足跡を歩いて見たいと発願し、京都の旅は始まったのです。
親鸞上人のお導きか偶然か、親鸞上人のお墓大谷祖廟のすぐ隣の「祇園畑中」に宿を取っていた。
右手が畑中の玄関先。まん中の巨木を挟んで、左側が参道だ。
参道に踏み込んですぐの右手に木の間から「祇園畑中」の建物が見える。
緩やかな登り勾配で曲がって見通しのきかない参道を進むと、山門が見えてくる。
あの山門の向こうが廟域か。所謂彼岸と此岸だ?
この山道は400m程有りながら勾配も緩やかで、心臓病のオレにはすごく優しい。親鸞上人が益々好きになる。これが信悟、帰依するというのか!
山門を入ると20段ほどの階段が右に折れて登り切り更に進むと左手に廟が見えて来た。ん?なんか変だ...
黒の漆地に金の飾りの施された廟が、神々しく佇んでいるのにその前面にテントがかかっている。何の為?艶消しだ‼︎
それにしても、神々しいを通り越して輝き過ぎ!
廟所を通り過ぎると右手に下りの階段があり、そこには親鸞の末娘で、親鸞の死を看取り葬送と拾骨を取り仕切った覚信尼の詠んだ詩の石碑も有った。
なんて書いてあるのか、達筆すぎて読めない!
京都に到着して直ぐ親鸞上人の廟を訪ねる事が出来、明日からの探訪に備えて畑中での美味しい夕食を頂く!
京都
8月末、阪大病院を退院して丁度一ヶ月が経つ。今日は退院後に行った京都のお寺巡りの足跡の報告です。
泊まった宿は、祇園のメインストリート京都四条通りの東突き当たりにある八坂神社の鳥居前に有る「祇園畑中」だ。
畑中の玄関先。
その玄関先から左を向くと目と鼻の先。八坂神社の鳥居が有る。
境内に足を踏み入れて見る...
古色蒼然とした建物も...(頷きながら見て来た筈だが...)
良く画像で見る四条通りから見える八坂神社だけれど...
こちらは正面では無いそうだ。
「畑中」の玄関口左隣。「八坂神社の鳥居」との間にはその神社の境内に沿う様に大谷祖廟の参道が伸びている。
そもそも退院後、俺の帰りを心待ちにしている両親の元にすぐ帰らず、何故京都に逗留したか。
理由は我が家に代々伝わる系図で、阪大病院入院直前の4月に下呂温泉を訪ねたのと同じだ。
話が長くなるので、決して物見遊山の長逗留では無い事の言い訳は明日以降...
浮世のバカ
朝起きて、階段の踊り場から昨日刈り取りの済んだ畑を眺める。
昨夜結構な量の雨が降ったらしくあちこちに水たまりが出来ている。
綺麗に片付いている畑を見て、雨前に片付いた安堵感と同時に今日の刈り取りは予定通り進められるのか気になりだした。
長男によると、朝早めにコントラの担当者と今日の予定の畑の様子をを見て、作業の進め方を決めるとか...
他の仕事とのかね合いや差し替えに考えを巡らし次の仕事を決めるのはゴーイングマイペースだ。そして親方業の醍醐味でも有る。
オレが子供の頃明治9年生まれの曽祖母が元気で、農作業に忙しい両親に代わって何くれと無く面倒を見てくれた。
特に妹が生まれてからと言うもの、夜も同じ布団に寝かせて貰った。
布団に入って横になると「はつばあちゃん」は決まって、「あ〜あ!今日も終わったか」と大きく一呼吸し、「寝るほどラクな事は無かりけり、浮世の馬鹿は起きて働く!安楽、安楽!」と口癖の様に言っていた。
疲れと言う意味をまだ知らないオレは「寝ると楽なの?」と無邪気に聞き返したものだ。
ここ数年経営移譲の準備と称して、仕事の切り盛りを長男に少しずつ任せて来た。そんな中「拡張型心筋症」などと言う難病を患い入退院を繰り返すようになり、体が動かせない分口うるさかったのだろう。そして昨年末、わたしが65才と高齢者の仲間入りを果たし、年金も貰える様になり、ここが潮時と酪農部門は長男に経営移譲した。
この経営移譲と相前後するように昨年10月からの一年、延べで8ヶ月入院を余儀なくされ、長男の仕事に口を挟む余裕など無かった。
そしてこの一年で気がついた事は、自分が一々口を出さずとも自分と作業の手順が違っても年は越せたし、今年も何とかなりそうだ。
今朝畑を眺めて、今日の作業はどうなるのか?と脳裏をかすめただけで、居間で両親や家内とお茶を飲みながら世間話。
農家仲間に言いたい。友よ、痛い足腰を引きずり、伸びなくなった腰に手を当てながらあなたは何才まで働くの?
「あ〜あ、経営移譲するほど楽な事はなかりけり。浮世のオヤジ、息子に任せず先頭に立って働く!安楽、安楽!」か⁉︎