なります
この頃日本語が面白い!と言うかなんか変⁈
タイフーン(台風)、ボンズ(坊主)、ツナーミ(津波)など古くから世界共通語として使われているものも多い。
又、明治維新前後から英語などを日本語に翻訳して使っていたが、それらの殆どが韓国語や中国語として使われていて、それら翻訳語が無ければ彼の国の人達は欧米人との会話が成り立たないと言われる。化学、物理、哲学、野球などの球技。浅学非才のオレには例題を沢山並べる事が出来ないが、漢字発祥の国に無いものを沢山生み出したものだ。凄い事だ!
それに引き換え現代人はレガシー、マニフェスト、インバウンドなど外来語として使われているがこれ又直ぐには分からない。安直に過ぎる。
今日午前、阪大病院で循環器科の宮川先生の診察が有り、検査の結果7/25の心筋シート移植以来我が心臓は好調を保っているとの事。そこに但し書きが付いた。矢張り減量についてだ。「折角シート移植の結果が好調に推移しているのに、体重の負荷がかかり過ぎ。少しずつでも減量に取り組んで下さい。心臓に余分な負担を掛けるなんて勿体ないですよ!」
矢張り90kgは過重か!しかし『人の口には戸は立てられず』とも言うし...(なんか使い方間違っている?)
先生の減量の話より、最近死語のようになっている「勿体無い」の言葉に懐かしさを覚えた。ハツばあちゃん(明治9年うまれの曽祖母)が口癖の様に使っていた言葉だ。
その(勿体無い)をケニアのワンガリ マータイさんが、人類が地球上の有限の資源の無駄遣いに警鐘を鳴らす合言葉にした。
日本人の心そのものが評価され嬉しく感じると同時に、今の日本の若者の間では全く見向きもされていない事が心配だ。
そう、今日の表題は「なります」だった。
昨日、日中オレを担当してくれる若い看護婦が来て「初めまして、今日1日担当させて頂くニワに、なります。」と挨拶してくれた。オレはすかさず、「広瀬です。ニワさんは昨日までイチワだったんですか?」と返すものの、彼女は(このオヤジ何言ってるの‼︎)と言った顔をして「はあっ⁈」と短い声を出した。「だって先ほど二羽になりますと言ったので、昨日は一羽だったんですか、と聞いたんだよ⁈」
「私の苗字は難しくて丹と言う字に羽と書いて丹羽と言うんです!」
「はあ、そうでしたか⁈スミマセン!」と私。噛み合わん!
冗談は、通じなければ、只の嫌味だな⁉︎
「こちら、ラーメンに、なります。」
「お待たせしました、こちら焼肉定食に、なります。」
なりますって、貴女の贅肉が焼肉になったの?
そう言えばレジでも「1000円からお預かりします?」って言うよな!
1000円からって、もっと高額の紙幣を出して欲しいのか...
選良?国士⁈
11月22日衆議院選挙が実施され、定数の3分の2を獲得した自公の圧勝で幕を閉じた。
選挙に先立つ事3週間前にはJICAの6次化の視察研修が有り、その関係で自民党の中川郁子代議士も参加してくれた。
昨今、国会議員の不倫騒動や秘書へのパワーハラなどが多すぎる。こんな事は今に始まった事じゃないと思うが、特に不倫相手を選ぶ事に安易過ぎる。
安倍総理大臣が常々「国民の生命、財産を守ることが政治の究極の目標だ!」と言っているし、全く持って同感だ。
これがあってこそ、国会議員は「選良」とも言われ、自らを顧みず国の行く末を憂う「国士」と呼ばれる所以だ。
中川郁子氏も如何程の思いをこの日本国に寄せていたか、思いの丈は知りはしないが、今回ポッと出の石川香織氏に負けただの人になってしまった。この中川郁子氏も2年ほど前、妻子ある国会議員との不倫が発覚していた。彼女は夫の故昭一氏が亡くなり寡婦となっていたたため、一人の女性が他の男性とのSEXくらい大目に見ても良いのではと思う一方、現在の安倍総理の盟友で総理候補として嘱望されていた中川昭一氏の無念を晴らし、更に地盤を守る意味で郁子が担がれていたはず。その事をスッカリ忘れたかの様なSEXscandalは致命傷だったのではなかろうか?
政治家の論評が今日の目的では無い‼︎
農業後継者はもとより、一般消費者に対して農業の楽しさや食料は長い年月をかけて皆の口に届く貴重な物だと言う事を伝え始めて四半世紀になる。これは消費者に牛乳が届くまでを分かり易く伝える為の説明用パンフレットだ。JICAの研修生を始め大勢の外国人も体験に来る為、英語の解説も付いている
このパンフレットは今も重宝しており、体験者ばかりでは無くカップジェラートの発送の際も一緒に送らせて貰っている。この25年で何十万枚印刷し配っただろうか⁈
六次化の勉強に来た中南米からの研修生との撮影だ。
今回図らずも拡張型心筋症を発症したけれど、帯広厚生病院の小山先生のお導きで奇しくも老後を取り戻す事が出来た。とは言え活動の制限は変わらす、残されたのは「口だけ?」の仕事だ。
口だけと聞いて、嘘八百とか口から出まかせなどと思わないで下さい。
心臓に余分な負荷を掛けずに出来る、農業の衰退と食糧の自給、家畜を飼う事の大変さや楽しさについてを喚起する活動だ。
日本と言う国を愛し、行く末を案じてささやかながら行動をして居る自分も人後に落ちない。
暇でしたら...
寛容か不寛容かと問われれば、自分は全く不寛容だ‼︎時間厳守に対しては...多分小学生の頃身に着いたものだと思うが、一里以上通学している自分達が最も早く着き、学校の直ぐ近くの友達は始業時間ギリギリに駆け込むように飛び込んで来たものだ。
一里以上を通学するには、様々なアクシデントや気をとられる事が数多ある。雨上がりの後道路の水たまりに、アメンボがその水面をスイスイ動き回るのを見て羨ましいと思うとともに、何処から来たんだろう?と不思議な思いで眺めても居たっけ!
道端の葦の葉が三角に折られその中に沢山のクモの子がウジャウジャしていたり、笹の葉がミシン目の様に等間隔に虫食い穴が開いていたり、牧柵の杭に使われたヤナギの木が、逆さまに打ち込まれているにもかかわらず、その逆さまのまま枝が下向きに出ていたりと様々目に付き乍も、遅刻したら困るので登校時は興味心を抑えるのに必死だ。その反動か下校時は歩いているのか屈み込むのか仲々家に辿り着かなかった。
今日23日朝、阪大病院に検査入院した。
入院に間に合うように昨日22日、帯広をJALの一便で発ったけれど、台風21号が沖縄の東海上を北上しその影響か、既に帯広も雨模様になっていた。
揺れがひどかったけれど、何とか着陸。ターミナルに入り外を見ると台風の影響で風雨が強い。羽田空港のターミナル内は沖縄、九州方面の発着便が遅延し次便が搭乗口が変更になるなど混乱し、足止めを食っている修学旅行生などでごった返していた。
自分が乗り継いで行く伊丹空港便もご多聞に漏れず、搭乗口移動と45分遅れで台風の中飛び立った。着陸時は更に揺れ主翼が地面を擦るのではと心配する程だったが、パイロットの腕が優っていたようだ。
伊丹空港の到着後は十数年来馴染みの「そじ坊」で遅い昼食を摂る。馴染みと言っても梅田大丸百貨店で年二度催事出店で訪れた際に寄った蕎麦屋だ。
そしてモノレールに乗り、阪大病院前駅近くの春日丘ハウスに宿泊。目指す宿泊施設は駅から500m程と非常に近くだけれど、結構な風雨の中を歩くのは傘無しでは憚られる。そう、家内が折りたたみ傘をバッグに入れてくれたのに、荷物を入れ替えして忘れたのだ!
ターミナル内のコンビニでも傘が売り切れ⁉︎参った!
フラフラしていると、窓際に忘れ物らしい傘が目に止まった。
45分程近くで椅子に腰掛けていたけれど、傘を取りに来る人は現れそうも無い。使い捨ての傘なので拝借?してモノレールに乗車し、万博公園駅で乗り換え阪大病院駅下車。その傘にお世話になりながら、春日丘ハウスに向かい到着!宿泊する。
そして今日23日、9時過ぎに入院の指示もあり8時半に病院到着。そして9時に真っ先に受付し、指定された東3病棟へ移動ナースステーションへ行くと、入院準備が整うのが10時頃なのでもう少し、と待たされた。
その10時10分過ぎに例の看護士が現れ、「もう少しお待ち下さい。お暇でしたらこれでも読んでいて下さい。」と入院案内やアンケート用紙を置いて行った。
斯くも苦労して11月23日午前9時に間に合うように頑張ってきたのに「お暇でしたら⁈」って...
米寿
昨夜、母の87才の誕生日を皆で祝った。満で87才と言う事は数え年では88才になるので単に誕生日では無く、米寿を祝う為私の妹夫婦に母の妹3人も来てくれた。宴の後全員で記念撮影し、そのまま談笑する老姉妹。
写真を撮っている事に気づき、笑顔でポーズをつける姉妹。
左から次女光子、母で長女美代子、三女千代子、四女美智子、全員80才を軽くクリアー。今日は参加していないが、妹はまだ他に五女和子、六女久子、七女節子と全員元気!スーパー姉妹だ。
米寿のプレゼントは補聴器。
十数年前から母は補聴器のお世話になっているけれど、耐用年数が過ぎ雑音がひどかったり音の拾い方も悪くなっており、買い換えたものだ。
「親孝行 したいときには 親は無し」と昔から言い習わされているがそこまで殊勝な気持ちでは無く、「母さん!」と呼び掛けると「なに?どうした?」と答えてくれる。65才になった今でも嬉しいものだ!
また、ギャングエイジとなり言う事も聞かず我儘放題のひ孫にも「この子は利口だ。何でも覚えてしまう。」と気長にそして優しく接している老母を見るにつけ、こんなに優しい母親に自分達兄妹が育てられたのかと思うと、心から幸せになれる。
学校給食
今朝の讀賣新聞9面の下段に60年ほど前の自分の小学低学年の頃を彷彿とさせる写真が載っていた。
私が通っていた帯広西小学校では、4時間目あたりから給食調理室から美味しそうな匂いが漂い始め、授業もそぞろ!
そして待ちに待った給食の時間!
この写真の様にアルミのドンブリに味噌汁や脱脂粉乳を溶いた代用乳を頂いた。主食はコッペパン。他には一品二品ほどのおかずもあったと思うが、思い出せない。
写真と同じ制服を着たお調子者の"クボタ"と"セキヤ マサユキ"はそのアルミで出来た皿でチャンバラごっこ。その皿のぶつかり合うカキーン、カチャーンと言った金属音があたかも刀のぶつかり合う音に聞こえた。目蓋の裏や耳に鮮明に残ってる。
当時農村部でもテレビが入り始め、当時人気番組だった「赤胴鈴之助」を真似たのだろう。
長じてから行なわれるクラス会では、皆異口同音に給食に出たミルクは不味かった!と言い、美味しいと感じて居たのは私一人⁈あの脱脂粉乳は本来ブタや牛の餌だった物だった。だから美味い筈が無い!との思い込みも有るのか⁈
重ねて言うけれど、あの脱脂粉乳は美味しかった‼︎あの脱脂粉乳はどこから来たのか?進駐軍の払い下げとは言われているが...