団体旅行、出発
6年ぶりか、農業委員会の研修旅行に参加、出発である。
右手(後列)手前の事務局逢坂課長から奥にけての7人と前列の河瀬さんそしてオレの9人の団体旅行(決して物見遊山ではない)がはじまった。
今日は羽田空港で乗り換え徳島まで...
詳細は時々刻々アップしようと目論んでいますが、心臓の悪い自分がせめて体重の変化など記録してみよう。
今朝食事前の体重は91.3kgだ。
ご馳走を食べ過ぎない様意志を強く持とう。山形のYさんの轍を踏まない様に。
後は心臓の鼓動が時々「ドクン、ドクン、ドクン」と高鳴るのが心配か?
そんな心の中の葛藤もよそに13:25発の徳島行きの搭乗開始
行きの搭乗がはじまる。
飛び立つて20分くらいすると静岡市上空だろうか富士の秀峰が見えて来た。
矢張り日本人なのか、只年を重ね合わせ、病を乗り越えて来たからこその感傷なのか⁈只々有難い!
こんな時綺麗で威厳に満ちた孤高の富士を眺めていると、拡張型心筋症を発症して此の方、余命5年との宣告を受け、従容と受け入れるべきと諦めていた。そんな時、帯広厚生病院の小山先生、大阪大学附属病院の堂前圭太郎先生、澤芳樹先生はじめ更には家族の温かく献身的なサポートが有ったればこそ余命宣告を解除して頂いたと感謝の気持ちが溢れてくる。
と、同時にしゅうへんの地形と合わせて見ると...
往時Bー29爆撃機がグアムを発ち、この富士を第一の目印とした事も頷ける。
愛しのマルティーナ
古い写真が出てきた。
帯広市主催のグリーンツーリズム調査の団長として、平成元年8月下旬仏、独、蘭の三ヶ国を訪問し、ドイツでは実際にファームインを実施している農家に二泊させて貰った。
始めの写真は受け入れ農家の御主人と娘のマルティーナと三人で記念撮影をしたものだ。
マルティーナは、食事時にはナイフやフォークを並べて食事を運んで来たり、食後のコーヒーも出してくれたりとお母さんの手伝いをするし、且つ良く気がつく子だった。そして通訳を介して父親と初めて見たのであろう東洋人との話に目を輝やかせて聞き入っていた。
オレが外に出るとついて来て農場内を案内してくれたり、一緒にバトミントンをしたりと人懐こく性格も可愛かった。
帰る日の朝部屋で帰り支度をしていると、彼女のお母さんが階下から呼ぶ声が聞こえ下りてみると、マルティーナがエプロンをつけてコーヒーを入れていた。母親は「マルティーナは今朝早起きして、ヒロセさんが大好きなコーヒーを自分で入れたのよ。お代わりして飲んでね!」
朝6時半頃だったと思うけど緯度の関係か外はまだ真っ暗で、こんなに朝早くからマルティーナがオレの為に!と、感激だった‼️
食後彼女の母親は「この写真、マルティーナがキリストの洗礼を受けたときのものなの。良かったら持って帰って!」と2枚の写真を手渡してくれた。
どうだ、可愛いだろー‼️
もう一枚
いよいよバスに乗り込む時、マルティーナも握手を求めてきた。
一瞬ハグをしようかと脳裏をよぎったけれど、日本男児には似合わないと、もう一人の自分が制止した。
遠からずマルティーナに会いに来たいものだ!と思いつつ帰途についたがはや30年が過ぎた。
彼女は確か、私の次男と同じ年だったはず。と言うことは...、今は36才か!
2月2日
昭和38年2月2日未明の事だから、55年も前のこと。
ハツばあちゃんが数え年88才で息を引き取ったその日。つまり今日は祥月命日で、今は仏間の鴨居の上から家族を見守ってくれている。
農作業が忙しい日々の両親、祖父母に代わって何くれとなく可愛がってくれた。
また、オレが1、2才の頃我が家で飼っていた綿羊(毛糸を作る為に)のオスが柵を壊して逃げ出し、住宅の引戸を頭で何度も突つき始めた。中々止めないのでオレが入れられていたイズコを隅に置いて三尺×九尺の飯台をバリケードにして身を挺して守ってくれたり...
「 夏の風は太っていていくら窓を開け放しても入っては来られず、冬の風は痩せていて隙間から入ってくる。」と暑さ寒さを笑い飛ばし...
皮が硬いカボチャをスイカ割りよろしく「刀(脇差)」を振り落として割ったり...
切り傷には「ヨモギの葉をよく揉んで当てがったり」、やけどをした時などは「その部分に漬け物の白菜の葉を当ててくれる」。
年頃になって当時のガールフレンド(今の家内。断じて間違いない⁉︎)と喫茶店に行き、洒落てハーブティーなるものを注文して驚いた。「なんじゃこりゃ⁈藪の野草を乾して馬の冬用の餌にと蓄えていた馬草の匂いだ!ハーブって馬草かよ!」驚いてマスターに「ハーブの材料はなに?」と聞くとハッばあちゃんが生前よくゲンノショウコやドクダミ、クコ、ハコベなどなど医者要らず(薬草茶)の材料である野草(馬草)とほぼ同じ!今思えば経験と知恵で不便を不便と思わない古き良き時代の生き証人だった。
66才を迎える今日でも鮮明にまざまざと思い出す。
明治9年生まれのハツばあちゃん。例え11年とは言え、江戸時代の気風を色濃く残した彼女に育てて貰った時間は掛け替えの無いものだ。
ともし火の消える日
今朝の道新。
わが母校は青春アニメ「銀の匙」の舞台大蝦夷農業高校のモデルとなった帯広農業高校だ。
オレは昭和42年度酪農科第1期生として入学した。
その頃は女人禁制では無く男女共学となっていたものの、むさ苦しい男子ばかり。受験は指定された席で受けるが、その時隣り合った受験生が何処から仕入れて来た情報なのかがせネタなのか「今年は20年ぶりに畜産科を改め酪農科と改変した事で、女子が3人出願していると聞いていたけれども1人も来ていないな〜」とため息混じりに話していたっけ。因みにその受験生は今、日本でも五本の指に入る大規模牧場を築き上げた男だが...
その高校には「定時制課程農業科」があり、クラス40人中10名程の女子生徒がいた。1学年240人中10人と言う競争率⁇だ。
この定時制は春から秋にかけての繁忙期には週に2日の登校。冬期は我々全日制と同じ登校と言ったシステムで、その女子生徒10人の存在感は大きいものだった。例えば三階の教室からグランドを見てみると、定時制のクラスが秋の体育祭に合わせて「マイムマイム」などのフォークダンスを楽しそうに踊っているではないか。我々のクラスではそんな潤いのある種目は望むべくもなく、本格的にまわしを締めての相撲かラグビーだった。
書けば書く程青春時代の怨み節みたいになっている。
この「65年の歴史に幕」と言う新聞広告を見て、「あゝオレと同い年!」。長く生きて来たと言う感慨と時代の変わり目を感じる。
レジスタンス
今日午後、JICA研修生11名を三時間に亘って受け入れた。
講義題目は「経営教育と経営論」と誠に難しいものだが、要するに(自家生産から商品開発・販売まで)という事でだ。つまり今風に言うと、広瀬牧場ウエモンズハートと言う六次産業化の先進事例を学びに来たのである。
今回の研修生はアフガニスタン、ブルキナファソ、ガーナ、コソボ、ルワンダ、タジキスタン、ウズベキスタンそしてマラウイからで、自身の乏しい知識乍、テロ、民族紛争、難民、飢餓と言った言葉が思い浮かぶ国ばかりだ。
講義では
一つに渡道100年となる我が家の歴史
二つ目は我が家の4本の経営の柱について
① 酪農、②ウエモンズハート、③酪農教育ファーム、④山林経営
三つ目は上記四つの経営の柱についての夫々の考え方である。
①の酪農については次世代に経営移譲し②は家内を中心に三男が経理を担当。③の教育ファーム活動は身体を酷使せず行えるので、自身のライフワークとして命尽きる迄頑張りたい。などと持論を語る。
そこで、ルワンダの革新的な開発のための能力強化部執行委員会プロジェクトマネジャーの肩書きを持つソソさんから質問があった。
「酪農教育ファーム活動が余り売り上げに繋がらないと言うけれど、続けて行くためのモチベーションはどうやって保っているのか?」というものだ。
答えて曰「簡単に言うと、日本政府と経済界へのレジスタンスです!」続けて「食料主権は独立国に認められた基本的権利です。そう言った権利がありながら戦後80%以上あった食糧自給率は36%に迄落とし、酪農家の数も最大時45万戸あったものが今は1万7千戸弱。更に食糧を人身御供に差し出してもでも一段の貿易の自由化(グローバル化の美名の下アメリカ化と揶揄される、米国からの年次教書を順次受け容れる事)に邁進している。そんな日本政府へ消費者を巻き込んでのささやかな抵抗です。オレの酪農教育ファーム活動のモチベーションは、牛乳のユーザーの方々に酪農家として生かして頂いた45年を感謝し且つ将来共食糧主権を護りたい...」‼︎
彼女の質問に答えて、何故酪農教育ファーム活動を続けるのか?
余命いくばくか?高齢者の仲間入りした自分にとって、「アメリカ様に安全も食も守って貰い米国の51番目の州に成り下がっているのに恬として恥じない我が日本国政府、経済界への、ジジイのささやかだけど最大の抵抗レジスタンス‼️」だった。