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2025年3月30日(日) 05:58

帯広の森とオレ

 今でこそ、少しは人に知られたウエモンズハートの店長として店の采配を振るっている家内だが、
昭和53年に洋裁学校の教師を捨ててしがない牛屋と結婚した。
新婚旅行から帰った翌日から、裁ち鋏を餌やりのフォークや糞掻き用のスコップに持ち替え、
ミシンをトラクターに乗り換えて牧草畑を縦横に走り廻る日々だった。
 
 その1、2年後の早春、牧草用の基肥を積んだトラックを家内に運転させ、自分は愛車"JD2020"にブロードキャスターを付け先導する。
目指す牧草畑に到着すると、昨年帯広市が「森」の用地として買い上げたであろう300間ほど離れた畑に、
部落の人の物ではない見慣れないトラクター走り廻っているではないか。

 帰ってからその事をオヤジに話すと、隣の農協M地区の、N原やW田と言った牛飼い達がグループをつくり、
帯広市の財産である森の用地を特定のグループに独占させるとは何事だ!我々にも管理権を認めろ!と談じ込んだらしい。
 翻ってみると、大半が森の予定地に入り離農間近の牛飼い達を巻き込んでいる為、
我が家を合わせた3戸の牛飼い達が手を挙げるばかり。
しかもその2戸は共同で、梱包した乾草を近くの畜産農家に全量売り捌いていて、
いくら地権者の権利を主張しても、説得力が無いのが現実だった。
 
 地権者では無い地区から割り込まれた事は腹立たしかったけれど、18.7haしか土地を持たず、換金作物も栽培しないとやって行けない我が家にとっては、
20〜30haの土地を安定的に、しかも借地料無しで借りられと言う恩恵はザラにある話しでは無い。

 昭和57年頃には36頭繋留牛舎では手狭になり、一部の搾乳牛を育成用のフリーストールで飼い、入れ替えて搾る様になる。
そして昭和60年には、50〜60頭を搾乳するようになったのだが、帯広の森の未整備用地の管理と言う名目の飼料基盤が安定していた事が幸いしたのだった。

つづく...


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