「帯広の森」とオレ
「帯広の森」計画から除外して貰い、人生の重荷を背負わず「やったー」と思う間も無く、
移転が無理なら現在地に牛舎を建てると言い出すオヤジ。
人生の旅の方角も決まっていないのに、旅支度をさせられるようなもので、
「一難去ってまた一難」とはこの事だと、自分の身の上を恨んだりもした。
しかし自分自身手をこまねいていた訳ではない。
当時、1960年代後半。先進地の酪農、農業を学ぼうと、海外実習がブームになりつつある時代。
派米協会とかホクレンなどでも実習先を紹介してくれるのだが、今日の日本の技能実習制度と同じで、
共同生活を送りながら派遣先に通うと言う方式が主で、一年或いは二年と実習をしても
牛の飼養技術は元より、英語すらも満足に習得出来ずに帰国する者も少なからずいた。
自分自身酪農技術の習得には関心がなかった。
兎も角英語を日本語と同じように自在に使えるようになるチャンスと捉えていた。
高卒後、国内のブリーダーと言われる酪農家に実習に入ったのには、酪農の実習ばかりでは無く、
2〜3シーズン酪農実習を続けると、アメリカのブリーダーの牧場を紹介してくれ、尚且つ人物保証もしてくれるのだ。
このコースで実習に入るとファームボーイとして家族と一緒の扱いをしてくれるのだ。
より確実に英語を習得出来る方法としての、徒弟制度の様なシステムを選択したのだ。
高卒後2年乃至3年の国内実習を経て、アメリカの牧場を紹介してもらおうと言う腹づもりだった。
当時早来町の竹田牧場に卒業間もない3月31日に実習に入った。
実習では一生懸命頑張ったことが認められ、親方からはもう1年働いてくれたら、
来年にはカナダの牧場を紹介してやるので、もう1年頑張ってくれと約束してくれた。
そんな翌年の2月オヤジから1本の電話が入った。
「あぁフミか。今年4月から我が家の実習生が婿入りすることが決まり、人手が足りなくなるので、実習を取りやめ家に帰ってこい。」
そんなオヤジの電話に驚きつつ「国内とアメリカ合わせて4、5年実習をさせてくれと頼んだんじゃないか?」と言うのがやっとだった。
「何をわがまま言っている。人手が足りなくなって、我が家も大変になるんだ。ともかく帰ってこい。」と、有無を言わせない。
そんなオヤジの迫力に気押され、これから19歳を迎える年齢なので、ここで一旦家に帰っても、アメリカカナダに実習に行くチャンスはあるだろうと、
自分を納得させ、家で働くことになる。
自分の将来に対してそんなあやふやな気持ちの中で、帯広の森計画による牧場移転や牛舎の新築話が次々と持ち上がって来るのであった。
続く