「帯広の森」とオレ
前々回、今年50年をむかえた「帯広の森」とオレについての続き...
「帯広の森計画については、まだ意向調査の段階なので、決定ではなく最悪除外もあり得るなぁ」
農業高校を卒業し、酪農学園短大2コースに進学しその一年生の夏期半年間は早来町の当時ブリーダーとして高名な
竹田牧場で実習を積んでいるオレの人生の方向舵は、広瀬牧場の後継者として進んでいるものと、
誰の目にも映っていたに違いない。
しかし、さにやあらん。
酪農家に生まれたからって何故酪農をやらなくちゃいけない?と、18才のオレの心の羅針盤は振れに振れていた。
土地が5倍になり、住宅施設も軒並み新築と言う移転条件を受け入れてしまえば、
オレの人生なし崩し的に酪農の道に曳きずり込まれていくと言う恐ろしさに苛まれていたのだが、
「計画の除外もあり得るなぁ」の一言で、オレの心の嵐は凪いだのだった。
いつか外の世界へ旅立つには、下手な荷物を背負い込むより現状維持のままがいい。
先ず大切なのは、親父が納得するような、移転をしない理由付けだ。
昭和46年当時、農作業は農耕馬からトラクターに替わりつつあり、乗用車を持っている農家は
未だ一握りと言う時代だ。
そこで「オレも遠からず結婚するだろうけど、田舎に行けば行くほど結婚の前提条件が
悪くなる。それはいやだ!種治祖父さんが14才で岐阜から十勝へ。その十勝では芽室の報国、南札内、元更別
そして現在地へと、不断の努力でこんなに恵まれた土地へと移って来られたんだろう。
帯広の街がどんどん発展しても、市街化地域と広瀬牧場の間には広大な森が広がり
誰に邪魔されず、ここで続けられるだろ。何で先へ先へと先回りしてる田舎に行かなくちゃ行けない⁉️」
それを黙って聞いていたオヤジは「よし分かった。残念だけど「帯広の森計画」からはずしてもらう様にするけど、それでいいんだな?」と
それ以上多くを語らなかった。
大正7年に渡道後の移転の足跡
上手く説得できたようだ。
暴風に見舞われてい自分の人生だが、これで少しの間自分のやりたい事をじっくり探せるなぁ、と安心!
しかしそれも束の間の静けさだった。
よく年の事、「明日、江口さんが来てくれるんだけどお前も一緒に話しを聞かんか⁈」
と言うではないか。
江口さんは、母の妹の旦那さん。つまりオヤジの義理の弟。オレから見ると母方の叔父で
腕のいい大工さんだ。彼の兄と弟の3人で山根建設と言う小さな建設業を営んでいた。
「えっ、江口さん?何で?」と訝るオレにオヤジは
「お前がせっかく跡を継いでくれるのに、今の牛舎では手狭だから、思い切って大きな牛舎を
建ててやろうと思ってな!」
いやはや、「一難去ってまた一難」とはこの事か...