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2024年5月17日(金) 05:56

帯広の森

 
 搾りたての牛乳をバルクから運び、鍋で沸かしたあと専用のマグカップに牛乳を注ぎ、
UCCのブレンドコーヒー114をひと匙ずつ入れる。
更に老父はひと匙の砂糖、家内と老母はヒアルロン酸を夫々足してよくかき混ぜたものを頂く。
老父と私は新聞を繰りながら。家内と老母は食事の支度や炊き上がったばかりのお仏飯を供えるなどの
合間に飲むのが毎朝の日課で、3日振りにその日常が戻ってきた。

さて、「乍ら」今日の道新17面、十勝版のページの「帯広の森 次の50年」の見出しに目が留まる。IMG_3758.jpeg

 この「帯広の森」は良くも悪くも自分の人生に、少なからず影響を与え続けている。
 振り向けば、帯農酪農科を昭和45年3月に卒業し、その年には酪農学園の短大Ⅱコースに進む。
夏は農業に従事し、10月から3月いっぱいは大学で授業を受ける事で3年間通えば卒業資格が得られると言うものだ。
間違っては困るのだが、資格が得られる、イコール卒業ではない。必須単位の取得は勿論の事、卒業試験はクリアーしなくてはいけない。

まあ、力む話ではなく、そう言う時代背景での話だ。

昭和42(1967)高校入学頃、旧帯広空港がジェット化されるため滑走路を延伸し、それに伴って発生するであろう騒音公害を防止する為、
空港周辺を騒音公害防止の観点から、緑地帯を設けようと言うのが、帯広の森のそもそもの始まりだ。

その後空港移転の話しが持ち上がり、曲折を経て同56(1981)年に、現在の大正地区に移転。
その為、騒音公害防止は鳴りをひそめ、今度は20万都市帯広を想定し、市街化区域が無造作に広がるのではなく、
一定のエリア内で収まる様な障壁としてのグリーンベルトが必要ではと、話しがすり替わって行く。
それが現在の「帯広の森」の由縁だ。

 前置きが長過ぎた!
「帯広の森」とオレの関係だ。
短大一年生の冬休みに自宅に戻ると父が「今、市では帯広の森計画が議会で承認され、予定候補地の選定を始めている。
その予定地に我が廣瀬家の土地もすっぽり入っている。そこで提案だが、今計画に入ると、もう少し郊外で5倍以上の土地が手に入り、
更に住宅を始め、牛舎、施設全て一新できる。広瀬牧場の跡を継ごうとしているフミには、最高の話しだと思う。
市は候補地も提示してくれているが、見に行ってくるか⁉️」と寝耳に水の話し。
高揚感溢れ、自信満々のオヤジの話ぶりに、だんだん腹が立ってきたが、その気持ちはおくびにも出さず
「その計画はもう決定なの⁉︎」と聞くのがやっとだった。
「イヤまだだ。計画予定地内の住民の意向調査の段階だ。」
「オレが聞きたいのは、帯広の森の計画は絶対なのか?どうしても移転を受け入れなくちゃいけないのか?」と必死に食い下がる。
「今は地権者の意向調査と、それを受けての計画の線引きの段階だから、移転は決まりでもないし、最悪除外もあり得るなぁ」と言うではないか。

 そこまで聞いて、何となくほっと胸を撫で下ろしている自分がいた。

 続きは次回


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