阪神淡路大震災
今日は令和5(2023)年1月17日。
阪神淡路大震災から丁度28年の歳月が流れたと、朝からTVニュースで流れている。
28年前とは平成7(1995)年の事だ。
「その一報」は、帯広厚生病院の一室で聞いた。
当時はまだ42才で牛飼いの現役だったので入院中で有りながらも、毎日午前4時前には
目を覚まし、ラジオを聴いていた。
その日もラジオをつける。
そして深夜放送も終わり、午前5時半からは『エノさんのおはようさ〜ん』が始まった。
始まって間もなくMCの『エノさん』が突然「...たった今東京のスタジオが揺れ始めました。
地震の様です。......中々収まりませんねぇ⁈...しかし、余り酷くはならない様です......。」
そして番組が再開され、各地の震度が時折情報として流されていた。
一時間の番組の中でMCのエノさんも「この地震は、名古屋から関西方面にかけてひどくなっている様です。」
更にエノさんの声は、「不思議な事に大阪から兵庫、特に神戸辺りの情報が入ってこないです。
何か有ったんでしょうか?」
「さあ時刻は間も無く6時半になります。この辺で『エノさんのおはようさん』は時間となりますが、
地震の情報は引き続きこのチャンネルでお伝えします。ではまた明日」と番組が終わった。
この後、詳細が判明して続々と被害がテレビなどでも報じられはじめると、ヘリコプターなどによる
上空からの映像にことばを失ってしまった。
神戸市安佐地区上空からは、倒壊した住宅地のあちこちから火の手があがり、又、数百メートルに渡り高速道路の
橋脚が折れて倒れ、うえを走っていた車は元より、下を走っていた車列の上にその橋桁が落下し、車はぺちゃんこ。運転者は圧死。
目を覆うばかりの甚大な被害が報じられていた。
入院期間中毎日24時間、ヘリによる上空からの神戸市の被害情報がテレビから流される。
倒壊した家、ビルなどから奇跡的に助け出される人。
ニュースでは「72時間以内に助け出されなければ、生還の可能性は限りなくゼロに近づく」などと
専門家の意見なども流れてくる。
消火設備は壊れ、また瓦礫が散乱していて消防活動も遅々として進まず、人が生きていられるで有ろうその72時間の間にも
発生した炎はずんずんと瓦礫の海をツナミのように拡がっていく。
その映像は恐ろしく、まるで生き地獄。息苦しくなった。
さてその時、何故自分は入院していたのか?
前年春に受けたJAの検診で、右の肺の映像に小さな「影」が認められ、詳しい検査を勧められた。
痛くも痒くもないので半年間放置。12月中旬精密検査を受けると、その肺の「影」が
大きくなっていると指摘され、さらに三日間程の検査入院をした。
CT.MRI.更には肺へのカテーテル検査(死ぬかと思うくらい苦しかったが、死ななかった)
そのカテーテルは肺の「影」の部分が癌かどうかサンプルを採取する為だったのだが、
結局採取は出来なかった。
担当医の説明。
肺の「影」は多分肺の外部に発生していると思われる。
そして春から半年後の映像では「それ」は大きくなっている。
一刻の猶予も無い。
診断は、肺の一部を切除しましょうと言うものだった。
善は急げですが、間もなく正月で病院は休みに入るので、年明けの1月4日入院
7日手術と行きましょうとの事だった。年明けとは当に平成7年の事で、阪神淡路大震災の10日ほど前だった。
さて右肺の下葉を切除し、サンプル検査の結果...
癌じゃ無かったとさ!
何でも、肺の一部が化膿していたとの事。
それじゃ、切らなくても良かったのでは!との私の抗議に担当医は
「原因不明ながら化膿槽があった。そしてそれが万が一破裂すると、化膿菌が体中にまわると敗血症に
なる可能性が大きいので、切除した」そうだ。
肺の切除前は、牛を追って走り回ったり、トラクターを取りに1キロ以上走ったり、ソフトボールやスキー或いは簡単な登山なども付き合い程度はやっていた。
しかしその後は、息切れなんて言うものではなく、呼吸困難に直ぐ陥り、運動制限せざるを得なくなった。
左右五葉に分かれている肺の一つを切除すると言う事は、単純に考えても肺の機能が20%減少している。
苦しい筈だ!
毎年阪神淡路大震災の日が近づくと、「癌」かもとの濡れ衣を着せられ、肺の5分の1を切除した結果として今も続く呼吸困難と共に
息苦しさを感じる。