母校100年
今日の勝毎に折り込みで、帯広農業高校の開校100年記念特集が手元に届いた。その一面だ。
我が家が十勝に移住した直後(2年後)の大正9年開校だ。この百年間での卒業生は18,000名余りで、自分もその1人だ。
2面から3面にかけては百年のあゆみが年表となって載っている。
これを見ると改めて学制改革や校名変更が幾度と無く繰り返えされている事がわかる。初めは「帯広町外12ケ村組合立十勝農学校」。2年後の大正10年には「十勝農業学校」。翌11年「北海道庁立十勝農業学校」。戦後の昭和23年には「道立十勝農業高等学校」。26年には「北海道川西農業高等学校」。そしていよいよ現在の校名で自分も入学した時の「北海道帯広農業高等学校」へと昭和32年に改称された。
今から53年前の昭和46(1967)年に入学した。
この年は従来の「畜産科」を改称し「酪農科」となり、自分達はその「酪農科第一期生として入学した。同じ年、帯農は道の「後継者養成高校」としてしていされ、実習寮が整備され農業科2クラス、酪農科1クラス計120名は一年間その実習寮に入寮。授業まえの早朝から牛や豚、鶏の世話をした(させられた)ものだ。
同期の1人村瀬優は広尾町長だ
大先輩には、若くして亡くならなければ総理大臣だったかも知れない中川一郎
農民詩人で有名な時田則雄さんの言葉に「目指せ1万ドル農家」と習ったとある。僅か6年遅れて入学した我々は「目指せ八桁農業」と言われたものだ。つまり売り上げ1,000万円を目指せ!と言う事だったが、時田さんの時代は360万円。農林予算に構造改善事業と言う名の補助金が沢山出される様になり、更には酪農には「不足払い法」と言う保証乳価制度が導入されるなど、高度経済成長期と言う時代背景を象徴している。目指せ360万円が数年後には目指せ1,000万円と値上げされていたとは。
さてひとつ納得出来ないのは、最終ページには100周年事業の協賛者が多数だった為、個人名は省略と載っていた。
賛意を表すのに団体も個人も変わらないはずだが...
少し残念だ!