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5月に、スポーツ少年団のスポンサーを引き受けてくれないか、との話しが舞い込んだ。
音更町内の鈴蘭小学校のバドミントン少年団だが、元々シャトルの消耗が激しい上に、ここにも物価上昇の影響が出てきていて、
十分練習が出来ず困っているとの事。
一も二もなく協賛に賛成していたのだ。
そして先月上旬、鈴蘭小学校まで出向いて取材を受けたのだが、6月24日、漸く勝毎紙面に紹介された。
食は命の親玉
今朝の業界紙一面。
論点。高知大学客員教授小田切徳美氏が「コメ問題と農村生活」の問題点について論じている。
「分断を架橋する関係人口」と、大見出しにあり、目を引く。
自分自身、遥か昔(自分の人生の中なのでたかだか35年程前だが)、「少数民族」となりつつ有る農家自身が、生産現場を開放して、食糧ができるまでを消費者に「伝えなきゃ」、食糧の価値は伝わらない。
つまり、作物の種を播いた後、灌水、除草、追肥などの農作業と同じで、消費者の口に食糧が届くまでを生活者に伝える事も
農家自身の「21世紀の農作業」であると自認し活動して来た。
この動きは、我が酪農業界では1999年、「酪農教育ファーム」として結実し、会員牧場には、年間100万人弱の学校や生活者が訪れている。
私自身としては35年、組織としても26年、関係人口作りに貢献してきているのだ。
小田切教授はこの事を、トランプ政治や小泉コメ大臣の劇場政治に見られる社会の分断、非対称性から読み解き、消費者理解が必要と解説している。
彼の下に集まる学生達は、入学時、途上国産の「フェアートレード」には関心があるが、
再生産が困難な価格水準にもなり得る国内農産物と生産者に目を向ける事はない。
学生が変わるのは、実習により現場を訪れるようになってからである。
農業の生命産業と言う本質に接し、作物の成長や収穫の喜び、多世代が協働する現場へのリスペクトが生まれる。
こう言う学生達は、農業、農村の応援団となりは可能性、さらに言えば、静かに進む分断の橋渡しをする可能性をもっている、と述べている。
つまり、農村自から、関係人口を増やすための能動的な活動が必要であると、説いている。
変わって、同紙面下段の「四季」には6次産業とは1次、2次、3次産業を足したのか、掛けたのか、どちらか。」
正解は掛け算。「1次産業がゼロになれば、全て滅ぶ」だそうだ。
自分自身は足し算かと思っていた。1次➕2次➕3次
日本の端っこ
今回思いがけず三男家族の誘いで石垣島に行って来たのだが、その際三男から「父ーさん、母ーさんの行きたい所ある⁈」と問い合わせがあった。
オレはすかさず「日本の最南端波照間島と最西端の与那国島に行きたい」と答える。
沖縄や石垣島などは個人的に2回。農業委員会等の公務で2回の計4回訪問しているが、
時間が限られていて離島まで足を運ぶチャンスが無かった。
そして今回出入り8日間移動無しのバカンスと言う事で、夢を叶えてくれたのだ。
3日目の17日、最南端の島波照間島に向けて三男と2人、石垣港から定期の高速艇に乗り込む。
100分後、波照間港へ入港
上陸後、一周15kmの島をレンタカーで廻る。
予定では、レンタルスクーターの筈だったのだが、乗れない。
変だ❓いや、年だ❗️情け無い。
そして最南端の地に到達した。
その証明書
2日後の19日は三男と家内の3人で、最西端の島与那国島へプロペラヒコー機で35分。
その証明書
勿論孫達とも思いっきり楽しんだ。
リスザル公園では
グラスボートでは前日の荒天で海の濁りが治りきらず
貸し自転車では、年を自覚させられる。強烈に!
ペダルを漕ぐ度に膝が痛く、止まろうと足をつくとまた膝が「痛タタタッ」。
そして堪えきれずにドテン!
こんな筈じゃ......!と思いつつ、憤懣のぶつけ所が無い。只々加齢の現実を受け入れざるを得ない旅でも有った。
石垣島
旅の始まりは6月15日。
三男家族とは羽田空港第一ターミナルで合流、
石垣行きは午後3時前と、乗り換え時間が充分あるため、子供達の腹ごしらえからはじまる。
約3時間のフライト。南西諸島の海域に入ると、島影が見えるとポンポン蒸気船の様な雲の連なりがなんとも言えず面白い。
自然の織りなす造形は、飽きる事をしらない。
さて、初日は先ず投宿先に辿り着くのが目的。
石垣空港に到着し、直ぐに予約してあるレンタカー屋さんに直行
石垣市内のホテルにチェックイン。
そして夕食は、5才と2才の孫連れなので、食料品や飲み物を買い出し、部屋食にする。
孫達ものびのび、そしてゆっくり食事を楽しみ、石垣の夜は暮れていくのでした。
弔事
21日午後4時半頃羽田空港に到着。
午後6時から東京御徒町の吉池食堂で、酪農専門組織の専務の退任慰労会が開かれ参加して来た。
その宴もたけなわの7時半過ぎ、一番下の妹から電話が入る。
胸騒ぎを覚えながら電話に出ると、やはり何かが有ったかと思わせる声色で
「たった今、岩田さんが亡くなったよ」との第一声だった。
岩田隆一。すぐ下の妹の旦那で、義弟とは言えオレより6才も年上でありながら、フットワークも軽やか。
我が家にとっては、機械の潤滑油のような、つまり義理の兄弟、家族間の良好な関係を維持してくれる人だった。
翌22日、飛行機便は満席で変更も出来ず最終便で帰着。
そのまま葬祭場の家族控え室を訪ねる。
もう午後9時。
妹と長男に出迎えられ、夜具に安置されている岩田さんに手を合わせ顔を覗き込むと、
いかにも安らかな顔で、今にも目を開いて「いやぁ、つい寝過ごしちゃった。ゴメン、ごめん」とでも言い出しそうだった。
23日、通夜の開式前に99才の老父(我が父博昭)が、オレからもお経をあげてやりたいと祭壇に向かい正信偈を唱える。
そして24日葬儀。49日繰上げ法要も済み、無事天国への旅出を見送る事が出来た。
安らかに。