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十二代目 宇右衛門の廣瀬文彦が語る ウエモンのよもやま話

2025年3月23日(日) 14:59

春、目っけ

 ウエモンズハート前のコブシの根際に福寿草が花開いていた。IMG_5100.jpeg
IMG_5101.jpeg

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2025年3月23日(日) 10:11

続「帯広の森」とオレ

 「帯広の森」とオレ。
昨年5月26日以来10ヶ月ぶりに続編を...

人口20万都市を目指して帯広市市街地を取り囲むように計画された帯広の森構想に
振り回され、ドサクサに紛れ、あわよくば海外へ逃避しようと妄想は膨らんだのだが、
オヤジの迫力のまえにあえ無く潰えてしまった。

さて、406.5haの農地を緑地化する帯広の森構想は昭和49年あたりから、土地の買い上げが始まり同時に、
市民植樹祭もはじまる。
昨年まで耕されていた畑に市民がてんでに入り込み次々と木が植えられ、先人の開拓の苦労を無にする様で実に悲しい風景だった。

2年目の植樹祭が終わってみると、毎年国の補助金で買い上げる土地の面積に対して植樹の面積が追いつかず、
耕作放棄地の様にアカザの林立する畑が目立ち始めた。
帯広の森構想は帯広市議会でたった1票差で可決された事業なので、買い上げた農地を荒らしたまま放置する事には市の公園緑地課も頭を悩ませていた。
そこに目を付けたオヤジが公園緑地課に出かけ、植樹できなかった農地を草地にして管理すると言う名目で
牧草の種子代と整地、播種代金を頂いて管理委託を受ける様になった。
昭和50年の事である。
そんなオヤジの動きは露知らず、オヤジの命ずるまま愛車John Deere2020にデスクハローを取り付けIMG_5099.jpeg
7.5haに林立するアカザを踏み倒し鋤込み、バイオリンと言う播種機で牧草の種を蒔いた。IMG_5097.jpeg
 
当時、我が家の農地は22.7haしか無い中、牧草やデントコーン、家畜ビート言った飼料作物の他に
小豆や大豆なども作っていて、少しずつではあるが乳牛も増頭し始め、飼料作物が不足し始めていた矢先、
市から管理委託料を頂き加えて飼料不足にも対処できる一石二鳥の出来事だった。

そして翌年も委託管理料を頂きながら5haくらいを草地化するのだった。

つづく...

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2025年3月22日(土) 10:55

冨岡一也

 冨岡一也と言う男。
大樹から天馬街道を超えた浦河町で酪農を営んでいる。
彼は帯広を生活の拠り所としている部分が多く、病院通いも含めて1〜2ヶ月に一度は
帯広に足を運んでいる様だ。
 
 今回はコロナ禍を挟んで7年ぶりに里帰りした長野県に住む弟さん夫婦を案内して、十勝をドライブして
楽しみ、その足で我が家にも寄ってくれたようだ。IMG_5095.jpeg
私の隣が一也君。そして弟さん夫婦とお嬢さん。
 
「なっぞら」や「銀の匙」はたまた30年前の「ボク生き(ボクらはみんな生きている)」と言う
中居正広司会のフジテレビの番組に出演した話しで盛り上がる(俺だけかも⁉︎)。

そんな中、「廣瀬さん、去年の春、帯広の森とオレをタイトルとした投稿が毎回『つづく』で締めていて、
数回を経ずして止まったままなんだよなぁ!」と、この「ウエモンのよもやま話」の読者でもある一也君が、曰うではないか。

年の始め、昔のよもやま話を点検していたら「帯広の森とオレ」が尻切れトンボのままだった事に自分自身気づいてはいたのだが...

一也君に促された事もあり、呆ける前に自分の記憶の整理も含めて続編を書いて見るかなぁ。

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2025年3月20日(木) 05:55

平成7年3月20日

 30年前のその日。
朝7時半、明治飼料の新井君と言う若い職員と愛知県の三河安城に向け、千葉県の蘇我駅から京葉線の電車に乗り込む。
通常なら京葉線で東京駅。そして新幹線に乗り換えて向かう筈だが、南船橋で武蔵野線で西国分寺へ。
そこから中央線で八王子。
そして横浜線で新横浜駅と、首都東京を迂回して到着。IMG_5082.jpeg

いよいよ新幹線に乗り換え、三河安城へ一直線。
そこで出迎えてくれた明治飼料の職員が、東京駅に近い地下鉄で毒ガス事件が有ったようだけど、大丈夫でしたか?と言うでは無いか。
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後々、オウム真理教が起こしたサリンと言う毒ガスを電車内や駅構内で撒き散らした、
無差別殺人テロと知るのだが、その時は何がなんだかよく分からず、二日間愛知県県内の複数の酪農家の
糞尿処理について視察、意見交換を続けたのだった。

何故その日の朝、東京から新幹線に乗らなかったのか、明確な理由がある。
話しは少し遡ってその年の1月7日、自分は帯広厚生病院で肺癌の疑いで右肺上葉の切除手術を受けたのだ。
術後経過は良好で一ヶ月程で退院するのだが、右胸の乳首の下から肋に沿って肩甲骨の下まで切っているので
農作業に中々復帰できず、さらに右肺の三分の一を取ってしまっている為、肺活量が減少。
2階への階段を登るだけで、肩で呼吸するも酸欠状態。呼吸困難に陥っていた。

そんな折、明治乳業帯広工場長の藤倉氏の申し出で、職員を一人随伴させるので、是非糞尿処理の先進地千葉と愛知県を
視察して来たらどうかと、提案されたのだ。
この旅程は全て藤倉さんの差配だったのだが、何故東京駅から新幹線に乗らなかったのか⁈
これは10年程後に知るのだが、京葉線の東京駅から新幹線の乗車口まで地下道を500m以上歩かなければいけないのだ。

右肺を切除したばかりで肺活量が回復していない私に対して、極力乗り換え移動の少ない路線を選んでくれたのが
先に書いた、東京を迂回するコースだったのだ。

日経新聞によるサリン事件の発生場所には通ってはいないが、時間的なタイミングで東京駅周辺は規制され
身動きが取れない事態に巻き込まれる事必定だっただろう。

どんな事から、被災したり難を逃れたり...

拡張型心筋症で余命5年の宣告を受けながら、帯厚生の小山先生。そして阪大の澤先生へと先端医療のバトンリレー然り‼️
自分は何かに守られているのだ。
 

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2025年3月17日(月) 09:39

日経コラム、「旅のかけら」から

 今朝の日経20面。
プロダクトデザイナーの柴田文江氏のコラムから...

以前、大人の修学旅行と称して、友人と旅に出掛けていた。
名所を散策しながら、ご当地の美味しいものも沢山いただいたが、
メインは波佐見焼のモノづくり現場の見学だ。
まずは、陶磁器の原料の岩石、陶石を砕いて粉々にして水に溶かして圧縮し粘土にして行く。
知っているつもりだったけれど、「本当に石からできているんだ」と実感した......
そしてIMG_5057.jpeg

「モノのルーツや生まれる場所を知ることで、そのモノに対する解像度が高まる」。
柴田氏は、だから旅をすることはとても良いことだと思っている、と。

このコラムから、自分は陶磁器を作る側だと感じた。

1978年のある日、東京の小6の男の子から「コーヒー牛乳って牛にコーヒーを飲ませたら出るんですか❓」と問い合わせの電話があった。
1985年、長男が通い始めた開西小のPTA会合の余白時間に「乳牛は赤ちゃんを産まなくても乳が出るんでしょ❗️」と言われた。
1989年、JCの後輩からは、「農業者は不作など困った時には農業補助金が貰えて良いですね〜‼️」と。
自分達の食糧のルーツも知らずに1円でも安い方が良いと言う消費者に腹をたてていた。
しかし、振り返って見ると、電化製品然り、車然り...1円でも安い方がいいと思っている自分に気づいた。
それならば、生産者自ら生産現場を開放し、生産者ならではの喜怒哀楽を見てもらおうと
1991年、乳牛の飼育方法をフリーストールにし、併せて見学室付きの「ミル(見る)キングパーラー」を建設。
結果想像以上に、牛乳の生産現場を知りたいとのニーズが高まり、
1995年には、見学や体験、話しを聞きたいと来場する人が2,000人を超えるようになる。
その消費者からは広瀬牧場の牛乳を飲みたい、乳製品が食べたいとの声が高まり、
1999年、ジェラートショップ「ウエモンズハート」をオープン。
2017年、広瀬牧場は長男に譲り
昨年2024年、お陰様で、ウエモンズハートは25周年を迎えた。

自国ファースト!を唱え、ケンカばかりしている地球人。
「宇宙船地球号」の乗客でしか無い人類の傍若無人の振る舞い!
何て醜い態様!

自国民、否、せめて地域の人達の為の農民でありたい。


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