3月31日
昨日30日早朝、「昨日29日と言っても、もう73年前の話しだけど...」と94才の老母が、問わず語りに話し始めた。
読んでいた業界紙(日本農業新聞)から顔を上げると、続けて母は
「3月26日に初次郎ジイさんが80才で亡くなったんだ」
「うん」
「葬式には、岐阜からは連れ合いのはつばあちゃんの弟3人と、嫁いだ娘の内たね叔母と岩崎実、道子叔母夫婦、甥の増田高司、松岡正雄など8人が弔いに来た。
岐阜からまる一昼夜かかるため、28日夕方西帯広駅に到着。馬車で出迎え。そして通夜。29日に葬式だった。」
「ふんふん」
「揖斐のお客さん達は、31日は初七日なので、お参りしてから揖斐に帰ろまいか、と話していた。」
その数年前から牛は飼っていたので、若いオヤジとオフクロは朝晩は餌やりや乳搾りは当たり前の様に済ませた上での葬儀と
それに伴う接待に次ぐ接待だった。
「そんな30日の夜から陣痛が始まって、31日の朝方にお前が生まれたんだ。」
「ほうほう」
「当時の葬儀は全て自宅で執り行うのが基本で、牛舎には行かなきゃならないし遠来の弔問客の世話でてんてこ舞い。
お前が生まれる予定日は4月20日だったけど、早産になってしまった。オッパイに吸い付く力が有ればいいけど、ひょっとしたらなぁ...と、
言葉を濁されて」
「そうだったんだ」
「でもな、私のオッパイはサシ乳で、お前が咽せて困るくらい出て助かった」
「お陰様で、今では相撲部屋の親方に間違えられるくらい、なりました。」
そんなこんなで初七日法要もそこそこで、
「オチンチンを付けて来たなんて、爺さんの生まれ変わりじゃ」とか
「これで跡取りができた」
「名前は何々が良いなどと、てんでに盛り上がったけど、文彦という名はお前の父さんが付けてくれたんだ」
70余年前のオレ
今日3月31日、目出度いめでたいオレの73回目の誕生日
今朝の日の出
仏壇に差し込む朝日
今夜は、家族でお祝いしてくれる様で、楽しみ!
3月31日
昨日30日早朝、「昨日29日と言っても、もう73年前の話しだけど...」と94才の老母が、問わず語りに話し始めた。
読んでいた業界紙(日本農業新聞)から顔を上げると、続けて母は
「3月26日に初次郎ジイさんが80才で亡くなったんだ」
「うん」
「葬式には、岐阜からは連れ合いのはつばあちゃんの弟3人と、嫁いだ娘の内たね叔母と岩崎実、道子叔母夫婦、甥の増田高司、松岡正雄など8人が弔いに来た。
岐阜からまる一昼夜かかるため、28日夕方西帯広駅に到着。馬車で出迎え。そして通夜。29日に葬式だった。」
「ふんふん」
「揖斐のお客さん達は、31日は初七日なので、お参りしてから揖斐に帰ろまいか、と話していた。」
その数年前から牛は飼っていたので、若いオヤジとオフクロは朝晩は餌やりや乳搾りは当たり前の様に済ませた上での葬儀と
それに伴う接待に次ぐ接待だった。
「そんな30日の夜から陣痛が始まって、31日の朝方にお前が生まれたんだ。」
「ほうほう」
「当時の葬儀は全て自宅で執り行うのが基本で、牛舎には行かなきゃならないし遠来の弔問客の世話でてんてこ舞い。
お前が生まれる予定日は4月20日だったけど、早産になってしまった。オッパイに吸い付く力が有ればいいけど、ひょっとしたらなぁ...と、
言葉を濁されて」
「そうだったんだ」
「でもな、私のオッパイはサシ乳で、お前が咽せて困るくらい出て助かった」
「お陰様で、今では相撲部屋の親方に間違えられるくらい、なりました。」
そんなこんなで初七日法要もそこそこで、
「オチンチンを付けて来たなんて、爺さんの生まれ変わりじゃ」とか
「これで跡取りができた」
「名前は何々が良いなどと、てんでに盛り上がったけど、文彦という名はお前の父さんが付けてくれたんだ」
70余年前のオレ
今日3月31日
日の出
仏壇に差し込む朝日
今夜は、家族でお祝いしてくれる様で、楽しみ!
帯広の森とオレ
今でこそ、少しは人に知られたウエモンズハートの店長として店の采配を振るっている家内だが、
昭和53年に洋裁学校の教師を捨ててしがない牛屋と結婚した。
新婚旅行から帰った翌日から、裁ち鋏を餌やりのフォークや糞掻き用のスコップに持ち替え、
ミシンをトラクターに乗り換えて牧草畑を縦横に走り廻る日々だった。
その1、2年後の早春、牧草用の基肥を積んだトラックを家内に運転させ、自分は愛車"JD2020"にブロードキャスターを付け先導する。
目指す牧草畑に到着すると、昨年帯広市が「森」の用地として買い上げたであろう300間ほど離れた畑に、
部落の人の物ではない見慣れないトラクター走り廻っているではないか。
帰ってからその事をオヤジに話すと、隣の農協M地区の、N原やW田と言った牛飼い達がグループをつくり、
帯広市の財産である森の用地を特定のグループに独占させるとは何事だ!我々にも管理権を認めろ!と談じ込んだらしい。
翻ってみると、大半が森の予定地に入り離農間近の牛飼い達を巻き込んでいる為、
我が家を合わせた3戸の牛飼い達が手を挙げるばかり。
しかもその2戸は共同で、梱包した乾草を近くの畜産農家に全量売り捌いていて、
いくら地権者の権利を主張しても、説得力が無いのが現実だった。
地権者では無い地区から割り込まれた事は腹立たしかったけれど、18.7haしか土地を持たず、換金作物も栽培しないとやって行けない我が家にとっては、
20〜30haの土地を安定的に、しかも借地料無しで借りられと言う恩恵はザラにある話しでは無い。
昭和57年頃には36頭繋留牛舎では手狭になり、一部の搾乳牛を育成用のフリーストールで飼い、入れ替えて搾る様になる。
そして昭和60年には、50〜60頭を搾乳するようになったのだが、帯広の森の未整備用地の管理と言う名目の飼料基盤が安定していた事が幸いしたのだった。
つづく...
ライチョウ⁉️
今朝、"木久"の土場から戻る道路の縁に二本足で立っている生き物が...
オレの頭の中にはこんな映像が浮かんだ
ライチョウ⁉️まさか‼️と思いつつ車をバックさせ、降りて近づいてみても逃げないし、なにか薄汚れている。
除雪時、転がり落ちた雪の塊が、この頃の暖気でうまい具合に出来た自然の造形。
それにしても、二本足で立っているとは...
帯広の森とオレ
帯広の森事業が始まって3年目。
帯広市による森の用地の買い上げが進むと同時に、下台の3丁目、4丁目は西帯広ニュータウンとして造成も進み始めていた。
宅地としての「ニュータウン」と、公園緑地の「帯広の森」では用途が違う為、帯広の森の側の地価は半額或いはそれ以下と買い入れ価格に大きな差が付けられて
いる事に気づいたオヤジの頭にあるアイデアが浮かぶ。
買収予定地内の地主の長老を代表に、自分は副代表として、帯広の森地権者協議会を設立。
ニュータウンとの地価の整合性を要望すると共に、一戸ずつ買い上げるのではなく、
一戸あたり1億円前後になる様に、併せて高齢で離農を喫緊の問題としている者を優先にしてもらう様要望する。
市の方では虫食い状態での用地買い上げとなる為難色を示していたが、団体交渉で協議会側の主張を勝ち取る。
後継者も無く高齢化が進行していた「森」の地権者達は、自分が生きている間に買い上げてもらえるのか心配の声が上がり始めていた為だが、
順次ニュータウンなど思い思いの場所に宅地を買い求め新居を建てて移り住む事が出来たのだ。
それと同時に父は、我が36区には牛を飼う畑作酪農の農家が大半なので、市が「森」の用地として買い上げた土地の
管理する権利を、廣瀬個人から地権者協議会に移管する事を提案。
元々水田を基盤とした農家などは土地が少なく、例え5年10年であれ、飼料基盤が安定すると
大喜びであった。
しかし市もサルもの。
市が買い上げるも「帯広の森」の植樹が追いつかない余剰の土地は、牧草地として保全するなら
市民にも受けが良く、協議会とウインウインの関係になったため、委託管理料は協議会に移行するとともに
3年目からは打ち切りとなってしまった。
広瀬牧場では飼料基盤として「森」の用地から管理として常時20〜30haから牧草を収穫し、1991年(H4)にはフリーストールとミルキングパーラーを導入し、
1994年(H7)には念願の100頭搾乳、出荷乳量870tを実現したのだった。
つづく...